Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

Oper, Wiener Walzer, ein bisschen Symphonie, usw.

カラヤン&フィルハーモニア管によるシュトラウス《ばらの騎士》(1956年)

 初めて《ばらの騎士》というオペラを聴いたときからずっと、「元帥夫人マルシャリン=リーザ・デラ・カーザ」という図式を頭に浮かべながら聴いてしまう節があり、エリーザベト・シュヴァルツコップというソプラノをあまり好まない傾向があった。*1そのため、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)がフィルハーモニア管と録音したこのCD*2も、同じくカラヤンウィーンフィルを振ったルドルフ・ハルトマン演出の映像作品*3もあまり鑑賞せずにいた。しかし、あまりにシュヴァルツコップを聴かないでいると、「なぜ往年のマルシャリンとしてシュヴァルツコップが評価されているのか」という永遠の疑問が解決しないので、こうして今日はフィルハーモニア管との録音を取り出して聴いている。ちなみにウィーンフィルとの映像作品に関しては、「なぜ他の公演はデラ・カーザなのにこの日だけシュヴァルツコップだったのか」*4という疑問が頭を悩ませていた本オペラの聴き始めの頃、デラ・カーザ好きにはたまらない記事を見つけてしまい、それ以来観ることができなくなってしまったことも告白しておきたい。*5

 

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ザルツブルクカラヤン生家の庭に立つ銅像*6

 さて、カラヤン指揮、フィルハーモニア管による《ばらの騎士》だが、壮年期のカラヤンの颯爽とした指揮ぶりを堪能できるのがまず魅力的である。1950年代から1960年代のカラヤンに見られる推進力のある音楽は、オペラのストーリーを非常に効果的に展開している。カラヤンは1982年から3年かけてウィーンフィルと《ばらの騎士》を録音しているが*7、円熟したカラヤンから滴るように繰り広げられる、最晩年のブルックナーの録音を思い起こさせるような黄金の響きによる巨大な音楽と今回聴いている1956年の録音の引き締まった音楽は好対照である。ただし、カラヤンの最大の特徴のひとつともいえる光沢感のあるレガートは、どの場面においても生かされており、「オックスのワルツ」に特筆される官能ときらびやかさ、そして第1幕モノローグに特筆されるほろ苦さの両面を際立たせているのは、この2つの録音の注目すべき共通点である。

 カラヤンは第1幕のマルシャリンのモノローグからオクタヴィアンとの二重唱、フィナーレに至るまでの音楽、あるいは第3幕の恍惚とするような三重唱からフィナーレにかけて、テンポを一気に落として聴かせている。それに対して、例えば第1幕前奏曲や第2幕の冒頭などはテンポを速く設定している。このようにカラヤンは、歌手とオーケストラの一致した劇的な興奮から、聴き手を一気にその物語の中に引きずり込むような音楽づくりをしている。また、シュトラウスが楽譜に散りばめた人物を表すモチーフや調性による情景描写などを余すところなく拾いつつ、そこを落とさないように一体となったサウンドで歌わせるようなカラヤンの解釈は、安心感のある立体構造を確実に保ちながら、響きが美しいだけでなく音楽とストーリーを結び付ける役割を果たしている。《ばらの騎士》に限らず、カラヤンはとりわけ登場人物の心情とオーケストラの表現を効果的に結びつけることに長けていると私は思う。

 さて、シュヴァルツコップの元帥夫人マルシャリンであるが、まず個人的な好みの問題からすると好みからは外れる。やはり初期のデラ・カーザの刷り込みからか、デラ・カーザのような白銀の気品に入れ込んでしまうと、シュヴァルツコップのマルシャリンには初めは少し違和感すらあった。シュヴァルツコップの特徴として、クリーミーな声を持っているという点がある。シュヴァルツコップはそのクリーミーに広がる均質な声を生かして、言葉の隅々まで徹底してニュアンスを与え尽くしており、その点圧倒的だと言える。まるで投網をかけるような情報量の多さからは、彼女自身がいかにこの元帥夫人マルシャリンを愛し、研究し、自分のレパートリーの中でも特に重要視したかというのが伺え、聴いていて驚かされるものであることは間違いない。今まで聴いてきたどんなマルシャリンよりも多い情報量とそれらを与えられるだけの能力の高さ。その反面、作りこみすぎているように聴こえなくもない。確かに言葉の端々にまでニュアンスを与える歌唱には脱帽だが、徹底した性格付けと少し大きめのビブラートがマルシャリンを30代前半という設定よりもいくぶん厚化粧に聴かせてしまうように私には感じられた。デラ・カーザの滲み出る気品と控えめな歌い口の内省的なマルシャリンとは、その点対照的かもしれない。

 とはいえ、シュヴァルツコップが圧倒的であるのは、第1幕のモノローグを聴いてもよくわかり、一般に「マルシャリン=シュヴァルツコップ」というイメージがあるのも頷けるところではある。徹底された細かな性格付けはもちろん、マルシャリンの持つメランコリックな面をオーケストラの翳りとともに与えていき、沈んでいく様は聴き応えがある。また、カラヤンの作りこんだ音楽の中で「シュヴァルツコップのマルシャリン」を演じることで、唯一無二のマルシャリンとしての存在感を確立しているという点で、シュヴァルツコップの人工的な歌唱は意義深いものと言えるかもしれない。

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エリーザベト・シュヴァルツコップ(1915-2006)は、往年の名マルシャリンとして世界中にその名が知られている。*8

 オクタヴィアン役には往年のメゾソプラノ、クリスタ・ルートヴィヒ。ルートヴィヒは先に紹介したバーンスタイン指揮、ウィーンフィルの録音*9などでは元帥夫人マルシャリンを歌っていたが、オクタヴィアン役でも活躍していた。ルートヴィヒの声は柔らかさが特徴的であるため、初めはマルシャリンの方がその特質をうまく生かせるのではないかと考えていたが、聴いてみるとオクタヴィアンもかなり素晴らしい。オクタヴィアンは設定上17歳の青年貴族であるが、その若々しさや情熱といったものが、明るく照らされた声により初々しく表現されるのはとりわけ魅力的だ。第2幕でのゾフィーとの若さ溢れるやりとりでは、ルートヴィヒの明朗な歌唱がとりわけ生きている。また場面に応じて発声の強さ、瞬発性を変えているように感じられ、第2幕でのオックス男爵とのやりとりなどではほとばしるような凛々しさを感じるのである。また、実直な騎士としての像はもちろん魅力的だが、田舎娘の召使マリアンネに扮しているときのコミカルな性格付けも魅力的であり、中性的なオクタヴィアンを演じ切っている。

 オックス男爵を演じるのが古き良きウィーンを体現する名バスバリトン、オットー・エーデルマンである。エーデルマンの魅力は何と言ってもやはり、その喜歌劇的な自由度の高い歌い回しだろう。楽譜から浮かせるように歌われる訛りの激しいオックス男爵には田舎臭さが存分に感じられるが、同時に滲むような品も感じられて、田舎貴族であるオックス男爵を表現できているのが素晴らしい。歌い回しの自由さはこのオペラの喜歌劇的性格を余すところなく伝えているが、場面がシリアスになる第3幕のマルシャリン登場以降は、エーデルマンの歌唱にも折り目正しさが加わるのは面白い。また、楽天的なオックスの性格はエーデルマンの自由度の高さによって際立ち、個性的ながら説得力のあるオックス男爵像をエーデルマンが見事に作り上げている点が、個人的にこの録音でいちばん堪能できたポイントとなった。

 ファニナル令嬢ゾフィーを歌うのはテレサ・シュティッヒ=ランダルである。繊細なゾフィーという印象を初めて聴いたときは持った。真っ直ぐに伸びる声は伸びやかさに無理がなく、硬質ながら押しつけがましさを感じない。しっとりとした気品を感じられ、いかにも令嬢というイメージが似つかわしい。ルートヴィヒの明るさや柔らかいが芯のある歌唱に比べると線が細いため、二重唱などで聴くと一層華奢で少し頼りないゾフィーの印象を受けるが、オックス男爵を拒絶する意思などは第2幕終盤で存分に感じられ、人物の感情の起伏をうまくとらえた歌唱だと思う。ただ、しっとりと上品すぎるよりは、期待に胸を膨らませたり、婚約者に対して落ち込んだりといった「夢見る少女」の面をもっと出す方が良いのかもしれない。例えばウィーンの名花ヒルデ・ギューデンのゾフィーが良いのは、彼女がオペレッタにも通じるような軽やかさと彼女に独特な上向きの弾むような歌い回しがうまく作用しているからだと思うのである。

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オクタヴィアンを演じるクリスタ・ルートヴィヒ(1928-2021、右)。1961年のザルツブルク音楽祭での《ばらの騎士》公演から。ゾフィーを演じているのは、前年カラヤン指揮での映像作品にも出演したアンネリーゼ・ローテンベルガー(1926-2010)。*10

 迫真の演技を歌唱からでも感じ取らせてくれるのが、ウィーンの名バリトン、エーベルハルト・ヴェヒターのファニナルである。ヴェヒターと言えば《こうもり》のアイゼンシュタイン役などオペレッタの諸役で有名な歌手だが、その性格付けをファニナルという役でもまた生かし切っているのが非常に素晴らしい。特筆されるのが第2幕で騒動に関してオックスに謝るときや第3幕で登場してからの狼狽などだろう。さらに、パウル・クーエンのヴァルツァッキやケースティン・マイヤーのアンニーナも好演しており、性格付けが難しい役ながら、説得力のある役作りとなっている。また、第1幕ではイタリア人歌手役に起用されたニコライ・ゲッダが伸び伸びと歌声を聴かせている。

 ただ、カラヤンの真骨頂はやはり第3幕フィナーレの構築力にあると思う。第3幕フィナーレの三重唱は以前も書いたように元帥夫人マルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーという3つの女声の声楽パートをも含んだ巨大な「交響詩」的な音楽だが、カラヤンは分厚い響きとレガートを生かし、一体感のある極上の音楽を作り上げている。複雑な三重唱の中でも醸し出すマルシャリンの寂寥感に、シュヴァルツコップの能力の高さが伺える。オーケストラパートが自ら支える声楽パートと情感を共有しているという点では、カラヤンの解釈は一貫している。フィルハーモニア管の弦にいくぶん見られる濃厚さはカラヤンの恍惚とするような音楽づくりに大きく寄与しているが、個性的な木管がまた、この三重唱でそれぞれの特質を発揮しているのも聴き逃せない。

 結局のところ、シュヴァルツコップのマルシャリンが往年のものだと言われるのは、シュヴァルツコップがこの役を深く愛し、深く追究し、言葉のひとつひとつ、その隅々に至るまで徹底的に緻密な表現を求めて、自らの能力で体現することによって、シュヴァルツコップにしかできない表現でマルシャリンを突き詰めたところにあると思う。舞台映像を観たらまた考え方も変わるのだろうから、近いうちに再び映像作品を観てみる必要があると私は感じている。

 

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*1:理想のマルシャリン~リーザ・デラ・カーザ - Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

*2:『ばらの騎士』全曲 ヘルベルト・フォン・カラヤン&フィルハーモニア管、シュヴァルツコップ、ルートヴィヒ、他(1956 ステレオ)(3SACD)(シングルレイヤー) : シュトラウス、リヒャルト(1864-1949) | HMV&BOOKS online - WPGS-10034/6

*3:『ばらの騎士』全曲 ハルトマン演出、カラヤン&ウィーン・フィル、シュヴァルツコップ、ユリナッチ、他(1960) : シュトラウス、リヒャルト(1864-1949) | HMV&BOOKS online - BD4684

*4:『ばらの騎士』全曲 ハルトマン演出、カラヤン&ウィーン・フィル、シュヴァルツコップ、ユリナッチ、他(1960) : シュトラウス、リヒャルト(1864-1949) | HMV&BOOKS online - BD4684

*5:Lisa Della Casa

*6:Herbert von Karajan in Salzburg | Denkmal von Herbert von Ka… | Flickr

*7:楽劇『ばらの騎士』全曲 カラヤン&ウィーン・フィル、トモワ=シントウ、バルツァ、ほか(3CD) : シュトラウス、リヒャルト(1864-1949) | HMV&BOOKS online - POCG-3698/700

*8:Elisabeth Schwarzkopf - Télécharger et écouter les albums.

*9:バーンスタイン&ウィーンフィルによるシュトラウス《ばらの騎士》(1971年) - Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

*10:Mourning the Death of Christa Ludwig • Salzburger Festspiele

バーンスタイン&ウィーンフィルによるシュトラウス《ばらの騎士》(1971年)

 今日は指揮者・作曲家のレナード・バーンスタイン(1918年8月25日-1990年10月14日)の誕生日である。これを機に久々にバーンスタインの《ばらの騎士》を取り出してみた。初めて聴いたときには、あまりに濃厚で聴き通すのすら苦労したのだが、今もう一度聴いてみると新たな発見もあって、また一味違った印象を受ける。

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レナード・バーンスタインウィーン国立歌劇場、1970年)。*1

 バーンスタインのこってりと滴るような濃厚な響きは、このオペラの官能と恍惚を全面に押し出すような印象を与える。個性的なウィーンフィルというオーケストラの持つ金色の響きと、バーンスタインの密度の高さと重心の低さがもたらす、さながら異世界の物語を体験しているような音楽には驚かされる。バーンスタインの音楽づくりはゆっくりとしたテンポで、朝食のシーンや第1幕終盤など、時に止まってしまうかと思われるような場面もある。しかし、第2幕でヴァルツァッキとアンニーナがオクタヴィアンとゾフィーを取り押さえる場面に特筆されるように、場面の切り替わりでは強弱の起伏を激しくとるなど、ゆっくりと進む物語に対して引き締める効果をもたらしているのは面白い。各場面で濃密な音楽を作りつつ、それぞれの場面の移り変わりがはっきりしているので音楽が一本調子にはならず、聴いている人を次の場面へと誘う。特に第1幕のしっとりと聴かせたフィナーレのヴァイオリンソロから瑞々しい木管が特筆される力強さと豪華さに満ちた第2幕冒頭、「銀のばらの献呈」への転換は圧巻である。

 また、バーンスタインの、場合によっては多少大げさにも感じる性格付けも注目すべき点である。例えば、オックス男爵の足音を思わせる低弦のピツィカートなどを強調して、オックス男爵の体型だけでなく、性格における強引さを表現したり、特に重唱でライトモティーフのソロを際立たせることで、歌詞の意味するところを明確にしたりするなど、随所に工夫が見られる。また、強弱のレンジが広いために感じる、音楽のスケールの大きさもバーンスタインならではと言えるだろう。

 そんな中でも「オックス男爵のワルツ」に特筆されるようなワルツの弾みはウィーンフィルならでは。そこに旋律を大事にするバーンスタインの濃厚なレガートがかかっても、決してロマンティックというだけの音楽には終わらず、弾みを伴った洒脱さが感じられるのである。第1幕の朝食のシーンでも、確かに夢見心地な様子が表現されたゆっくりな展開ではあるものの、ワルツの弾みによって想像よりももたれることなく進行していく印象を持った。ウィンナ・ワルツのような伝統的な部分を、それが身に染み付いているオーケストラに多少任せ、尊重しながら、バーンスタインの個性を浸透させたシュトラウスの音楽を私たちはそこに体感できるのである。ウィーン国立歌劇場においては1968年に現行のオットー・シェンクの演出の初演も任されたバーンスタインウィーン国立歌劇場での公演においては、第3幕前奏曲を「指揮」せず、目くばせだけで指示を出したという話もある。*2ウィーンの伝統の尊重とバーンスタインの斬新さが互いに良い効果をもたらした音楽だと私は思う。

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クリスタ・ルートヴィヒ(元帥夫人マルシャリン、左)とギネス・ジョーンズ(オクタヴィアン)。ウィーン国立歌劇場での1968年のオットー・シェンク演出の初演時。*3

 歌手陣の中ではやはり往年の元帥夫人マルシャリンのひとり、クリスタ・ルートヴィヒが圧巻の歌唱を聴かせてくれる。ルートヴィヒのマルシャリンと言えば、カール・ベーム指揮、ウィーンフィルでの1969年のザルツブルク音楽祭ライブの録音*4も出ているが、このバーンスタイン盤でも持ち味の柔和で奥行きのある声がマルシャリンの気品を十二分に湛えている。1956年のカラヤン指揮、フィルハーモニア管の録音*5ではオクタヴィアン役を歌ったルートヴィヒにはメゾソプラノのオクタヴィアン役が染み付いているため、マルシャリンとオクタヴィアンとの感情の交錯はやはり聴きものである。とりわけ第1幕フィナーレへ向かうモノローグからオクタヴィアンとの二重唱に至る場面は、バーンスタインの音楽が醸成する翳りの上に、オクタヴィアンとの心のずれを絶妙に表現している。また、第3幕での、オックス男爵に対しての「騎士としての体面を保って去りなさい」と諭したり、ゾフィーへの柔和な表情を見せたりする場面は特に、ルートヴィヒの気品ある歌唱により説得力の増すものとなっているように感じられる。

 オクタヴィアンを歌っているソプラノ、ギネス・ジョーンズもまた、後年のカルロス・クライバー指揮、バイエルン国立歌劇場の映像*6で元帥夫人マルシャリンを歌っている名マルシャリンである。ジョーンズは1968年のシェンク演出の初演時から1971年に至るまで、ウィーンで10回オクタヴィアンを歌っているが、その後1973年にウィーン国立歌劇場でマルシャリン・デビュー、1995年に至るまで実に32回もマルシャリンを歌っているのである(合計42回すべてがシェンク演出であるのも興味深い)*7。ただ、バーンスタインの録音におけるオクタヴィアンもジョーンズの才能を感じさせる素晴らしいものである。幅広いレパートリーを持つジョーンズの余裕のある発声と低音から高音に至るまでレンジの広い歌唱は、役柄への無理のない性格付けを可能にしている。オクタヴィアンには騎士と扮装時の召使の田舎娘マリアンネの演じ分け、さらに騎士としてもマルシャリン、ゾフィー、オックス男爵…といった登場人物に対応する際の歌い分けが必要であるが、これが実に鮮やかで説得力があるのである。情感豊かではあるが決して野暮ったくならない第1幕終盤でのマルシャリンとの二重唱、瑞々しく初々しいゾフィーとの感情の交換、オックス男爵に対する挑戦的な態度、第3幕での召使マリアンネとしての演技力と策略を遂行する理知的な側面…。全てが魅力的なオクタヴィアンである。

 オックス男爵を歌っているのは、ウィーンの名バリトン、ヴァルター・ベリーである。ウィーン出身だけあって訛りが激しいオックス男爵としても歌い回しが滑らかで、角の取れた自然さは特筆される。ひょっとすると陥りやすい、オックス男爵の濃すぎる味付けにも決して陥らず、「粗野だが下品になりすぎない」オックス男爵を見事に描いているのが魅力的だ。マルシャリンに対しては粗野な部分も比較的控えめに、ファニナルに対してはある程度強引さが見られるなど、歌唱からでも人物によって対応の仕方を絶妙に変えているのが分かるのもまた素晴らしい。また、機嫌が悪くなることはあっても、基本的に楽天的なオックス男爵の性格は、明るく照らされるようなベリーの声とも非常によく合っている。

 ゾフィーを歌っているルチア・ポップほどゾフィーという役が似つかわしい歌手もなかなかいないだろう。1966年に初めてウィーン国立歌劇場ゾフィーを歌い、以降ウィーンだけでも23回ゾフィーを歌っている*8。それだけでなく、カルロス・クライバーに重用され、バイエルン国立歌劇場でもたびたびその初々しいゾフィーを披露した。言うまでもなくポップのゾフィーの艶やかな声は唯一無二のものである。シュトラウスゾフィーに与えたG-Dur(第2幕冒頭の調性)の婚礼を夢見る少女の性格付けは、特に上向きの歌い回しに感じられる。「銀のばらの献呈」での無理のない伸びやかな高音は、その歌声ととも天に昇るような錯覚をするほど素晴らしいものである。オックス男爵の登場前の希望、オックス男爵への失望、そして第3幕フィナーレでの希望。ポップはゾフィーという感情の変化の大きな役を、ヒルデ・ギューデンら他の名ゾフィーと共通する上向きの歌い回しを絡めながら、官能的な美声をもって見事に演じ切っている。

 他にもエルンスト・グートシュタインによる堅実なファニナルも聴きものである。堅実ながら自在な感情表現は、後の名ファニナル、ゴットフリート・ホーニクらにも共通する魅力である。マレイ・ディッキーのヴァルツァッキも好演だが、脇役の中でもひときわ魅力的なのはマルガリータ・リローヴァのアンニーナである。リローヴァは膨大なレパートリーを誇ったウィーンの名脇役だが、とりわけ彼女の安定感のある歌唱ときめ細やかな性格付けにはこのアンニーナの役でも驚嘆させられる。イタリア人歌手役に抜擢されたスター歌手、プラシド・ドミンゴは立派な歌唱だが、なぜかこの役には違和感があった。ショルティ盤で起用されたルチアーノ・パヴァロッティと同様、シュトラウスの音楽の中にある「ウィーンのイタリア人」という役にはなぜかしっくりこないものが、個人的に歌唱から感じられた。ただ、貴族の邸宅によばれて歌声を披露するという意味では、こうした大物歌手の演じるイタリア人テノール役もまた面白いものである。

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バーンスタイン指揮、ウィーン国立歌劇場での《ばらの騎士》(1968年)。オットー・シェンク演出の初演時は、後年の録音と同じくギネス・ジョーンズ(左)がオクタヴィアンを演じたが、ゾフィーはレリ・グリストだった。*9

 このオペラの極致ともいえる、第3幕フィナーレの三重唱の巨大な「交響詩」の様相もまた見事である。バーンスタインウィーンフィル、そして各歌手の良さが生きた恍惚とするような響きはこの録音と白眉としてあげられるものだろう。オペラの中でこれまで出てきた様々な要素が統合された複雑な三重唱の中で、とりわけルートヴィヒ、ジョーンズ、ポップという3人の異なる性質の歌声が互いに重なり合い、個性的なウィーンフィルの音色としなやかに築き上げるクライマックスには、一体となって塊として聴かせる面だけでなく、いくぶん強めの金管が全体の流れを引っ張りはしても、各パートが埋没せずに特徴を維持し、それぞれの存在感を確立しているという面もまた感じられる不思議さがある。

 通常のカットなしよりも長い3時間33分のじっくり聴かせた物語も、なぜかそれほど長く感じないくらいの魅力が、この第3幕フィナーレを聴いたときに私の中に感じられた。いや、もしかすると、じっくり聴かせたからこそこのフィナーレはより感動的なものとして聴こえたのかもしれない。

 

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《ばらの騎士》組曲について

 本当に久しぶりのブログとなってしまった。12月は何だかんだバイトが忙しく、過去いちばん働いたかもしれない。幸い教育系のバイトなので、脳は活性化したようで、音楽を聴いているときなどは特に、普段気づかないことにも気づくことが多くなった。そんな中で、《ばらの騎士》を聴いているととても面白い。

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ギュンター・グロイスベック(オックス男爵)とエリン・モーリー(ゾフィー)。無観客となった昨年12月のウィーン国立歌劇場の公演のストリーミングから。シェンク演出。指揮は今期から音楽監督に就任したフィリップ・ジョルダン*1

 ということで、九響2月14日名曲コンサートでは《ばらの騎士組曲が演奏されるので、その話を少ししたい。そもそも《ばらの騎士組曲という作品はオペラを見通した上で言うと「構成がイマイチ」な感覚が個人的にはあるのだが、それでも音楽が魅力的なことに変わりはなく、その日は銀のばらを献呈するのがシュトラウスサウンドを全身に浴びるのが楽しみである。

 

 1992年にプレヴィンがウィーンフィルと録音した以下の音源をもとに、話を進めていきたい。以下の時間表示はこの音源に対応している。

youtu.be

 早速構成である。

  1. 0.00~ 第1幕 前奏曲
  2. 3.03~ 第2幕 ばらの騎士の到着~銀のばらの献呈
  3. 8.15~ 第2幕 オクタヴィアンとゾフィーをヴァルツァッキとアンニーナが取り押さえるシーン(カオスな音楽)
  4. 8.58~ 第2幕 オックス男爵のワルツ(幕切れ)
  5. 13.31~ 第2幕 冒頭
  6. 14.05~ 第3幕 マルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーの三重唱~オクタヴィアンとゾフィーの二重唱
  7. 19.19~ 第3幕 オックス男爵の退場シーンのワルツ
  8. 21.09~ 終結

 すべての場面は切れ目なく続くものの、その場面の切り替わりは比較的わかりやすい構成となっている。

 

1.第1幕前奏曲

 ホルンによる、青年貴族オクタヴィアンの上昇音型の動機から始まる前奏曲である。それと絡み合うように弦が元帥夫人マルシャリンの下降音型の動機を奏する。オクタヴィアンとマルシャリンは愛人関係にあり、この前奏曲は愛の一夜の情景を描いたものである。2人のモチーフが絡み合う音楽がホルンの強奏で最高潮(fff)に達し、弦の連符とスラーによるかなり緩やかな下降音型、ホルンとファゴットのオクタヴィアンのモチーフが登場する。その後落ち着いた弦中心の音楽へと移り、次第に爽やかな朝の情景へとオペラでは繋がっていく。

2.第2幕 ばらの騎士の到着~銀のばらの献呈

 第1幕ではマルシャリンの従兄のオックス男爵がマルシャリンの邸宅を訪ね、自身の婚礼のために「銀のばら」を届ける使者を選んでほしいと依頼する。マルシャリンはこの「ばらの騎士」にオクタヴィアンを選定する。オックス男爵の結婚相手は、成金貴族ファニナルの一人娘のゾフィーである。

 この場面の音楽は、第2幕冒頭から続く婚礼前のきらびやかな音楽である。オクタヴィアンの上昇音型がどんどん近づき、クレッシェンドしていくことで「ばらの騎士」オクタヴィアンの到着が近づいていること、婚礼前のゾフィーの落ち着かない心持ちが表現されている。molto cresc. がかかった後のトゥッティの ff でオクタヴィアンが登場する。一気に音楽が静まった後、ハープやチェレスタで装飾(銀のばらのモチーフ)が施された厳かな音楽のもと、オクタヴィアンがぎこちなく口上を述べ、ゾフィーが答える場面になる。銀のばらがオクタヴィアンからゾフィーに渡ると、オクタヴィアンはゾフィーに一目惚れしてしまっている。オクタヴィアンは一目惚れしてしまった自分の気持ちを、ゾフィーは結婚の喜びを歌いあげるが、二重唱は "den will ich nie vergessen bis an meinem Tod"(このときを私は死のときまで決して忘れない)という同じ歌詞で締めくくられる。

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第2幕 銀のばらの献呈シーン。ステファニー・ハウツィール(オクタヴィアン、右)とチェン・レイス(ゾフィー)。ウィーン国立歌劇場での《ばらの騎士》1000回目の公演(2019年3月21日)。*2

3.第2幕 オクタヴィアンとゾフィーをヴァルツァッキとアンニーナが取り押さえるシーン(カオスな音楽)

 銀のばらの献呈の後登場したオックスは、相手の家柄が成金貴族ということもあって、かなり横柄な態度をとる。品のないオックス男爵の振る舞いにゾフィーは早くも失望し、オクタヴィアンも怒りを隠せないでいる。オックス男爵の退場後、ゾフィーはオクタヴィアンに助けを求めるが、「私たちふたりのために("für uns zwei")」ゾフィーを守るとオクタヴィアンが言うので、ゾフィーは感動しふたりは抱き合う。

 この場面の音楽は、抱き合ったふたりをオックス男爵の手下となったイタリア人のゴシップ屋、ヴァルツァッキとアンニーナが取り押さえる場面のもので、非常にカオスなものである。カオスな音楽が静まった後、オックス男爵の足音のような低音の「ダン、ダン」というモチーフが奏され、オックス男爵が登場する。

4.第2幕 オックス男爵のワルツ(幕切れ)

 登場したオックス男爵に対してゾフィーは申し開きができないので、オクタヴィアンが代わりにゾフィーの気持ちを述べるが、オックス男爵は取り合わない。そこで、オクタヴィアンはついに剣に手をかけ、オックス男爵との決闘まがいの騒ぎになる。剣がからきしなオックス男爵は少し突かれただけで悲鳴を上げ、騒ぎが大きくなってしまう。そこにファニナルが登場、ゾフィーも彼に結婚したくないと述べるが、ファニナルは彼女を激しく叱責する。オクタヴィアンは非礼を詫びて退場、ゾフィーも侍女マリアンネに促されて退場した後、ファニナルはオックス男爵に詫びて酒を振る舞う。

 この場面の音楽は「オックス男爵のワルツ」として知られる有名なもので、ヨハン・シュトラウスの弟ヨーゼフ・シュトラウスが作曲したワルツ《ディナミーデン》作品173のモチーフが用いられている。酒ですっかり機嫌が戻ったオックス男爵が "Ohne mich, jeder Tag dir so bang. Mit mir, keine Nacht dir so lang"(わしがいなければ毎日が君には不安、わしといればどんな夜も長くない)と歌う。そこにアンニーナがマリアンデルという女性から会いたいという手紙を持ってくる。マリアンデルとは第1幕でオクタヴィアンが女装して元帥夫人マルシャリンの召使の田舎娘に扮していた時の名前であるが、オックス男爵は「彼女」がオクタヴィアンであることには気づいていない。アンニーナが手紙をヴァイオリンの美しいソロに乗せて読み上げるが、それがオクタヴィアンの上昇音型であることも非常に興味深い。すっかり機嫌のよくなったオックス男爵は陽気にワルツを歌い、第2幕は幕切れとなる。

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ヴォルフガング・バンクル(オックス男爵、ばらの騎士)。ウィーン国立歌劇場(2019年3月)。*3

5.第2幕 冒頭

 音楽は「ばらの騎士の登場」直前の音楽に戻り、次の第3幕の音楽と繋いでいる。

6.第3幕 マルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーの三重唱~オクタヴィアンとゾフィーの二重唱

 3人が三者三様の思いを独白する複雑な三重唱とそれに続く比較的単純な二重唱によって、《ばらの騎士》のオペラはフィナーレを迎える。

 第3幕前半は怪しげな居酒屋でのオックス男爵とマリアンデルの逢引のシーンであり、結局オクタヴィアンの策略によって「スキャンダル」が表沙汰になったため、ファニナルはオックス男爵とゾフィーの結婚を一方的に破棄する。大騒ぎとなっているところに元帥夫人マルシャリンが登場し、オックス男爵に引くように言う。また、自身もオクタヴィアンとの別れが、予感していたものとはいえ(これが有名な第1幕のモノローグで歌われる)、こんなにも早く訪れたことを悲しみつつ、ゾフィーにオクタヴィアンを譲る。(最終的には引くが)引き際の悪いオックス男爵とあっさり引くマルシャリンの姿の対比が興味深い場面である。

 さて、組曲に使われている三重唱では、オックス男爵が去った後、別れを悲しみつつ引かなければならないと決意するマルシャリン、マルシャリンの潔さに当惑しつつゾフィーへの愛を誓うオクタヴィアン、事態を呑み込めないでいるがオクタヴィアンの求愛を受け入れようとするゾフィーの、非常に複雑な心情が歌われている。また、この場面では分厚いオーケストラによってそれぞれの歌手のパートが支持されており、歌手含めた「交響詩」的な音楽であるため、恍惚とするような美しい音楽であるが、歌詞は非常に聴き取りづらい。マルシャリンが "In Gottes Namen"(神の御名において)と歌った後、マルシャリンは退場し、オクタヴィアンとゾフィーのみ残る。

 それに続く二重唱との間には、26小節間オーケストラのみで奏される部分があり、複雑な二重唱と比較的単純な二重唱とを繋いでいる。マルシャリンが引いた後、幸福感に満たされたふたりは夢ではないかと二重唱を歌い、第3幕は幕となる。二重唱の間もハープとチェレスタによる「銀のばらのモチーフ」の装飾が印象的である。

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第3幕三重唱。クラッシミラ・ストヤノヴァ(マルシャリン、右)、ソフィー・コッシュ(オクタヴィアン、中)、モイツァ・エルトマン(ゾフィー、左)。2014年のザルツブルク音楽祭(クプファー演出)。*4

7.第3幕 オックス男爵の退場シーンのワルツ

 第3幕で計略にはまったオックス男爵が、マルシャリンに促されて退場するシーンのワルツである。居酒屋の店主や御者、給仕、子供たちなどに追い立てられながらオックス男爵が従僕と逃げるように去っていく場面。舞台上ではマルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーの神妙な面持ちと、追い立てる店主や御者などのせわしない感じ、早々と逃げ出そうとするオックス男爵の対比が非常に印象的である。オペラでは、オックス男爵が退場すると、舞台上に残ったマルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーの三重唱へと徐々に場面が移っていく。

8.終結

 組曲にのみ見られる終結句はオックス男爵の退場シーンのワルツを引き継ぎ、ウィンナ・ワルツのコーダのような形である。タイトルロールのオクタヴィアンのモチーフが登場し、華やかに曲が締めくくられる。

 

 以上このような構成となっている。楽曲はかなり美しく可憐なので、ぜひ一度聴いていただきたい。残念ながら予定されていたサッシャゲッツェルは来日できなくなってしまったが、山響常任指揮者であり、ウィーン・フォルクスオーパーで年末年始の《こうもり》を振った実績もある阪哲朗さんの九響との初共演に期待したい。*5

 

 それではこの辺で。

 

参考文献

1. ばらの騎士 - Wikipedia

2. ばらの騎士 | シュトラウス | オペラ対訳プロジェクト

#Beethoven250 にあたって~私とベートーヴェン~

 ベートーヴェン生誕250周年を迎えた。おおよその誕生日しかわからないが、誕生日だといわれているのが今日12月16日である。*1世界でいちばん有名な作曲家のひとりと言え、その楽曲が世界中で愛されていることは言うまでもない。年末になれば日本では交響曲第9番《合唱付き》がしばしば演奏されるし、交響曲第5番や第7番などは、クラシックに興味を持っていない方でもどこかで「聴いたことがある」のではないだろうか。

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ウィーン19区、交響曲第6番の着想を得たとされるベートーヴェンの散歩道(Beethovengang)*2と、交響曲第3番に因んで名づけられたエロイカ通り(Eroicagasse)*3の交差点。

 しかしながらなんとも不思議な作曲家だ。信じられないことに、つい1年前まではベートーヴェンは私が聴くクラシック音楽のレパートリー外だった。九響の三大交響曲で聴いた5番も、カルロス=クライバー指揮 / ウィーンフィルのCDで聴いた5番も、全く魅力的に思えなかった。正直この交響曲第5番という作品の第4楽章終盤のなかなか終わらないフィナーレに苦手意識があったほどである。しかし、去年の今頃には私はすでにブラームスのピアノ協奏曲にハマっていた他、何とブルックナーも日常的に聴いていたのである。そんな中でベートーヴェンにはなぜか苦手意識があり、当時CDなどを持っていて聴いた3曲の交響曲(5番、7番、9番)の中で特に5番がどうしても好きになれなかった。世間的には「あの動機」で最も親しまれている交響曲のひとつだが、正直魅力が全く分からなかったのである。

 

 私に転機が訪れたのは2019年11月24日。ヤノフスキ指揮、WDR響の北九州公演だった。当時ベートーヴェンが苦手であったにもかかわらず、ヤノフスキという指揮者の名前は知っていたために行くことにしたのである。それは大いに正解だったといえる。プログラムはベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番と交響曲第6番《田園》。この《田園》という曲自体には幼いころから比較的親しみがあり、幼いころの情景を思い返しながら聞けば何とかなるだろうと思っていたのである。

 しかし私はピアノ協奏曲第5番からすでに雷に打たれたような衝撃を受けた。実は演奏会前の予習すらままならない状態で臨んだ公演だったのだが、チョ=ソンジンの弾く軽やかなパッセージとヤノフスキの指揮する分厚いオケの音色が一体となって襲ってきて、まさに「運命の出会い」を感じさせるものだった。そして40分間聴き通して、今までにないぐらいの感動を覚えた。休憩時間になって後半を聴いてもいないのに、このコンビの交響曲第5番&第6番のCDを買い求めたほどである。このとき私は初めて「ベートーヴェンはこんなにも魅力的なのか」と思わされた。

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WDR響北九州公演での終演後のヤノフスキ(2019年11月24日、北九州ソレイユホール)。青で統一した服装にフェルトハット姿で登場、その気品ある姿に息を呑んだ。

 後半の交響曲第6番は得も言われぬ会心の演奏で、これには大満足し、終演後にヤノフスキに感謝の気持ちを伝えるために出待ちしたほどである。ヤノフスキは気品に満ちた紳士で、微笑をたたえながらドイツ語で丁寧に応じてくれた。今でもこのCDは宝物だし、ベートーヴェンの聴き始めの記念碑となっている。

 

 年末になり、小泉和裕指揮 / 九響の交響曲第9番に感銘を受けた私は、そのころにはある程度ベートーヴェンの魅力に気付きつつあった。初めは冗長だと感じていた第九にここまでの魅力を感じたのには何か理由があるはずだと思って、2020年はベートーヴェンの生誕250年のアニヴァーサリーだし、何かしら「ベートーヴェン交響曲全集」を手に入れてそれを聴いてみようと感じていた。

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フィリップ=ジョルダン指揮、ウィーン響によるベートーヴェン交響曲全集。

 年明けになり、私がそんな「交響曲全集」と運命的な出会いを果たしたのが、以前ご紹介したフィリップ=ジョルダン指揮 / ウィーン響のものである。テンポが速く整理されており、構造的な音色を響かせるこの演奏の数々に虜になり、有名な第3番でさえ、このとき初めて魅力的な作品に思われたのである。もともとリズム感、テンポ感に長がある作曲家という認識ではあるが、ジョルダンの抜群のセンスはそんな楽曲の性質を引き立てていて、個人的にかなり好みに突き刺さるものとなった。それまである程度聴いていた交響曲第6番、フルート好きだからという理由で聴いていた第7番に加えて、他の偶数番にも惹かれたほか、何といっても散々苦手意識があったあの第5番でさえ素晴らしい演奏に思えて、何度も聴いた。

 その後のコロナ禍もあり、このベートーヴェン交響曲全集にはかなりお世話になった。毎日のように引っ張り出してきては聴き、そのたびに新鮮さと新たな発見があって、心底楽しい演奏だった。その結果、このベートーヴェン交響曲全集は、買って10か月とは思えないほどボロボロになってしまったのである。この全集に学んだことも多いし、何といっても恩人であるフィリップ=ジョルダンの音楽にも同時に惹かれた。これまで全く聴いてこなかったベートーヴェンに一瞬にしてハマってしまい、その後他の作品も、唯一のオペラ《フィデリオ》も含め探求するきっかけとなったのには理由があるように感じられた。そうして彼の演奏を聴いていくうちに、彼の音楽自体に激しく惹きつけられてしまった。今年の9月にはブラームス交響曲全集も手配したほどである。

 また、ヤノフスキのベートーヴェン交響曲全集もまた、あの運命的な公演からちょうど1年経った先月24日に入手することができた。彼のベートーヴェンも速いテンポで引き締まった演奏だが、特に第7番の演奏には目を見張るものがあった。これからどんどん聴いていきたい全集のひとつである。

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ヤノフスキ指揮、WDR響のベートーヴェン交響曲全集。音楽だけでなく、内装もかなり凝っている。

 ベートーヴェンというのはとても不思議な作曲家である。それまでほぼほぼ無関心だったのに気づけば虜になっている。すごく魅力的な作曲家に思えてくる。リズム感に関してはかなり引き込まれるところであり、そのフレーズも親しみやすい。指揮者によって解釈の違いを楽しみやすく、特に交響曲第9番をよく聴いて聴き比べをしていた時期もあった。

 個人的な感想としてだが、交響曲第6番や七重奏曲(作品20)、交響曲第2番などを聴くと必ず若い白ワインが彷彿とさせられる。しかしそれが甘口なのか辛口なのかは指揮者による。例えばヤノフスキ指揮、WDR響の実演で聴いた交響曲第6番は、第1楽章から比較的速めで音を立てていた印象から私にはホイリガーのように感じられた。しかし、小泉和裕指揮、九響で聴いた交響曲第2番の第2楽章は、その構造的な音楽づくりにもかかわらず、九響の柔らかく分厚い弦もあって甘口の白ワインのように感じられた。それに対し、ウィーン室内合奏団の七重奏曲を聴いていつも思い浮かべるのは、大好物の冷えた辛口のグリューナー・フェルトリナーである。しかしいずれの場合にせよ、思い浮かべる光景は常にカーレンベルクからハイリゲンシュタットに至るまで広がっているワイン畑なのである。まさに《田園》的な趣向が感じられるこれらの曲に私がまず惹かれたのは言うまでもない。

 聴くたびに何かしらの発見があるジョルダンベートーヴェン交響曲全集と、聴き始めのきっかけを作ってくれたヤノフスキのベートーヴェン交響曲全集。このふたつの全集を軸として、今後も室内楽からオペラに至るまでさまざまな楽曲を聴いていきたいし、まだまだ開拓できていない楽曲も聴いていきたいと思う。

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3月の柔らかな陽光に包まれたベートーヴェンの散歩道(Beethovengang)。ウィーンはとりわけ春が魅力的に感じられる。

 

#今聴きたい歌手50選 第16回 ~ミヒャエル=ローレンツ~

 すっかりご無沙汰してしまった。最近は学校、バイトにコンサートと忙しい生活を送っていた。中でも印象に残っているのが今月初旬のウィーンフィルの北九州公演。ウィーンフィルは本国がロックダウン、出発前日にテロが起こった中で来日した初日。その日のメインのチャイコフスキー6番《悲愴》はテロの犠牲者に捧げられ、ウィーンフィルとマエストロ・ゲルギエフ、そして聴衆は黙祷を捧げたのであった。この日のコンサートはとりわけいまだ短い人生の中でも記憶に残るものになると確信している。コンサートで久しぶりに泣いた。《悲愴》の第4楽章が静かに閉じられたとき、ゲルギエフの短い指揮棒が下りるまでの静寂と余韻、そこでの心臓の鼓動を私は一生忘れることはないだろう。

 

 さて、久しぶりに歌手紹介、今日はウィーンの名脇役テノールを紹介したい。

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ミヒャエル=ローレンツ(エギスト、エレクトラ)。チューリヒ歌劇場(2019年)。*1

 ミヒャエル=ローレンツ(1978-、ドイツ)

 ミヒャエル=ローレンツは現在ウィーンで特に活躍しているテノールである。ベルリン響の首席トランペット奏者としての経験も持ち、2006年から歌手として活動を始めた。*2 主に性格付けの必要な役柄を得意としており、その皮肉の込められた性格付けと突き抜けるような鼻にかかった声は、往年の名脇役ハインツ=ツェドニクを彷彿とさせる。当たり役はさまざまあって、そのすべてにおいて持ち前の性格付けを存分に発揮しており、私はローレンツがツェドニクの後継となりうるのではないかと考えている。軽いものの突き抜けるような声で、特に高音に強い。また、演技力にも定評があり、コミカルな役どころではアドリブで独特のアクセントを加えることもできる。私がウィーン国立歌劇場のストリーミングで観た《ホフマン物語》のフランツでは口笛を吹いていたが、それがローレンツのフランツ像の構築に一役買っていたのは言うまでもない。

 私が観た中でとりわけ当たり役だと感じたのはエギスト(エレクトラ)、アンドレス/コシュ二―ユ/フランツ/ピティキナッチョ(ホフマン物語)、ヴァルツァッキ(ばらの騎士)、エルメール(アラベラ)など。

 エギストは今年のザルツブルク音楽祭ウェルザー=メスト指揮で歌っていたが、不吉な予感を感じていつつも自らの運命について全く気付いていないこの役を演じるのに、皮肉の込められた性格付けはある意味似合っているように感じた。この役は登場時間は短いわりに《エレクトラ》の物語ではかなり重要な役であり、性格テノールが歌うエギストを初めて聴いて新鮮さがあった。

 実演で触れることができたのがウィーン国立歌劇場での2019年3月の《ばらの騎士》でのヴァルツァッキ。ヴァルツァッキはツェドニクで予習をしていっただけあって、実演で聴いたローレンツのヴァルツァッキがあまりにもツェドニクを感じさせるのには素直に驚いた。第1幕でマルシャリンに取り入ろうと強引に売り込むところ、第3幕でファニナルが到着したときにオックスを裏切るところ…。その線の細い固有の声は、聴けばそれがローレンツのもので分かるものであった。また、突き抜けるような声で早口で歌うので、ヴァルツァッキの「うるさいイタリア人」という特徴にも完全にマッチしていて素晴らしかった。コミカルなオペレッタ的な演技もここでは存分に発揮され、絶妙にためたり歌いまわしを工夫したりといった技も垣間見えた。ウィーン国立歌劇場ではこのプロしかヴァルツァッキを歌っていない*3が、今後もっとこの役を歌ってほしいと思わせられるような歌唱と演技であった。

 

 ローレンツは今シーズンは9月にウィーン国立歌劇場で代役として若い従僕(エレクトラ)を歌った*4が、今後も注目される役どころを歌う。年末年始のヨハン=シュトラウスの《こうもり》ではコーネリウス=マイスター指揮でアルフレートを歌い*5、来年6月にはモーツァルトの《後宮からの誘拐》に登場する。*6 特にアルフレート(こうもり)に関しては得意にしてきた役であり、オペレッタで持ち前の性格付け、演技力がどう生かされるのかは見ものである。

 

 それではこの辺で。

#今聴きたい歌手50選 第15回 ~クレメンス=ウンターライナー~

 だいぶ長いことブログを更新できていなかった。ご無沙汰してしまって申し訳ない。10月から大学も新学期を迎え、それなりに忙しくなってきた。さらにそれなりにコンサートのペースも戻りつつある。予定では11月のコンサートは5回、12月は3回で今年を終える。11月初旬のウィーンフィル、いまだに開催可否が出ていない状況だが、どうなっているのだろう…。などと思いながら、先日は期待の若手、カーチュン=ウォンの指揮で九響を聴いた。コロナ禍での自粛期間以降では初めての外国人指揮者だった。全体の流れを意識しつつも、左手を使った随所の工夫に驚かされ、何か新鮮な気分で楽しんだコンサートだった。

 さて、本当に久しぶりとなってしまったが、今回も歌手の紹介を続けていきたいと思う。今回はバリトン。ウィーン出身の期待のバリトン、期待のファニナルである。

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クレメンス=ウンターライナー(エスカミーリョ、カルメン、右)とエレーナ=マクシモーヴァ(カルメン)。ウィーン国立歌劇場(2016年9月)。*1

 クレメンス=ウンターライナー(1972-、オーストリア

 クレメンス=ウンターライナーはウィーン出身のバリトンで主にハイバリトンとして活躍している。ファニナル(ばらの騎士)やパパゲーノ(魔笛)を当たり役としたゴットフリート=ホーニクなどに学び、*2 2005年にウィーン国立歌劇場のアンサンブルメンバーとなり、900以上の公演(うち21の新演出プレミエ)で85もの役を歌いこなしてきた。彼の当たり役の中にはファニナル(ばらの騎士)、ファルケ(こうもり)、パパゲーノ(魔笛)、マゼット(ドン・ジョヴァンニ)、メーロト(トリスタンとイゾルデ)、エスカミーリョ(カルメン)、アルベール(ウェルテル)、シャープレス(蝶々夫人)などが含まれている。*3

 堅実で折り目正しい歌唱がとりわけ魅力的で、声にはしっかりした低音の土台から発せられる立体感が伴っている。決して外連味たっぷりというわけではない、控えめながら個性的な性格付けはオペレッタに由来するものだと考えられる。それが生きてくる役が例えばファルケ(こうもり)であり、パパゲーノ(魔笛)であり、ファニナル(ばらの騎士)である。ファニナルはウィーン国立歌劇場のストリーミングで聴く機会があったが、持ち味の安定感のある歌唱とそこから繰り出される感情表現には目を見張るものがあった。中でも第2幕のオックスとオクタヴィアンの決闘まがいのシーンの直後の狼狽ぶりには納得させられるものがあった。性格付けはやりすぎると野暮ったくなるし、歌ばかりに集中してしまうとかえってその役を演じられない、バランス感覚をフルに活用させられるものだろうと素人ながらに思うのだが、ウンターライナーはそのバランス感覚が本当に素晴らしい歌手だと思う。開放的で立体的な、しかし少し独特な粘り気のある彼の歌唱と、ある意味整った、しかし整然とするだけでなく感情に走る部分もあるような平衡感覚のある表現は見ていて、聴いていてすんなりと抵抗なく触れることができるものであり、オーソドックスながら個性的な面もいろいろな部分に見られるという点で非常に魅力的である。

 さらにウンターライナーには声量もある。そのため、ワーグナーシュトラウスの大編成のオペラでも、存分に表現することが可能である。例えば私は《影のない女》のストリーミングを観る機会があり、ウンターライナーはその公演では使者として歌っていたのだが、第1幕などではその役上で冷静さを保った表現をしていたのに対し、第3幕で乳母(このときの乳母は藤村実穂子さんだった)を見捨てるような冷淡さを持った歌唱を堂々としていたのには震えるものがあった。強気で不気味さがあり、カイコバートの使者役にふさわしい歌唱だったと思う。こういう性格付けにはウンターライナーは唯一無二のものがあり、それがウィーンで長年定評のあるアンサンブルメンバーとなっている所以でもあるのではないかと私は考えている。

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クレメンス=ウンターライナー(シャープレス、蝶々夫人)。ウィーン国立歌劇場(2009年9月)。*4

 ウンターライナーは今シーズンもウィーン国立歌劇場のアンサンブルメンバーとして歌う。9月にはベルコーレ(愛の妙薬)をすでに歌っている。*5 11月にはシモーネ=ヤング指揮でブリテンの《夏の夜の夢》に登場*6、同時にクリスティアンティーレマン指揮でのシュトラウスの《ナクソス島のアリアドネ》のハーレキン*7、その後はベルトラン=ド=ビリー指揮で《ウェルテル》のアルベール*8、年末年始はコーネリウス=マイスター指揮での《こうもり》でお得意のフランクを披露*9、来年2月と5月には《愛の妙薬》のベルコーレ*10、来年5月にはオロスコ=エストラーダ指揮で《カルメン》のダンカイロ*11などをウィーン国立歌劇場で歌う。今後さらに期待が高まるウィーンのバリトン、いつか生で聴く機会があればうれしい。

 

 それではこの辺で。

フィリップ・ジョルダンのブラームス交響曲全集

 

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フィリップ・ジョルダン(ウィーン響)。*1

 フィリップ・ジョルダンという指揮者を聴き始めて半年以上経った。思えば初めてまともにベートーヴェン交響曲をすべて聴いたのは、ジョルダン指揮、ウィーン響のものを聴いたときだった。それからというもの、ジョルダンに注目して、さまざまな録音を聴いた。ウィーン響とのシューベルトの《グレート》《未完成》、チャイコフスキーの6番《悲愴》、パリ・オペラ座管とのベートーヴェン交響曲全集(映像)、ムソルグスキーの《展覧会の絵》…。ロシアものは何となくあっさりしすぎていて、「怖さ」「凄み」に欠ける演奏だと思ったときもあったが、《展覧会の絵》の話をとある指揮者の先生としたときに「これをロシアものと捉えるかフランスものと捉えるかによっても解釈は変わってくるよね」と言われてハッとした。確かにもともとの作曲はムソルグスキーだが、オーケストラ編曲はラヴェルのものなのである。それをパリ・オペラ座管でやるということ…。なるほどと思わされた。

 そんなジョルダンが今回ウィーン響とブラームス交響曲全集を出しているので、これも即座に予約して購入した。ベートーヴェン交響曲全集で生かされていた構造的な音楽づくりがどのように生かされているのか、はたまた別の音楽に生まれ変わっているかが知りたかったのである。

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フィリップ・ジョルダン指揮、ウィーン響によるブラームス交響曲全集。2019年に楽友協会大ホールで録音されたもの。*2

 結論から言うと、またしても良い意味でフィリップ・ジョルダンにしてやられた。前回のベートーヴェン交響曲全集で見られたクリアで新鮮な響きを、ブラームスでも最大限活用しているように感じられた。楽器ごとの響きは調和しあいつつも、決して混ざり合った濁りのある響きはならない。すべての楽器の特長を生かして、そのそれぞれの音を明確にしている。ただ、そこに押しつけがましさは存在しない。細やかに配慮され、丁寧に形作られた音の響きながら、その工夫は音楽、楽曲の魅力を引き立てるのに貢献しているだけであり、決してそれ以上ではないのである。ただ、ジョルダンの作り出す響きは彼に特異的であり、他の指揮者にはないものである。すべてのパートの良さを引き出し、それらを構造的に重ね合わせていくことで、ある楽器が他の楽器をかき消したり、邪魔したりすることはないのである。それぞれの楽器を心地よく伸びやかに歌わせ、クリアな響きを作り出す。ベートーヴェン交響曲全集でもみられた解像度の高い演奏という彼の良さがここでも聴かれる。

 しかしながら、ベートーヴェンの演奏に比べると、明らかに低弦の存在感は増しており、ブラームスらしさがそこで表れている。そこには重心の低さがある。ベートーヴェンのときも軽やかな演奏ながら低弦の存在感がそれとなく示されており、決して軽すぎない音楽づくりが見られた。今回のブラームスでは重心を一層低くし、それが全体的な立体感のある演奏に繋がっている。こってりとした重さではなく、あっさりとした層状に響いてくる音楽に存在感が増し、どっしりとしていつつも自然な流れとして聞こえてくる感覚である。しかも軽すぎず、ブラームスらしさがある。本当に不思議な響きである。

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フィリップ・ジョルダン(ウィーン響)。*3

 今回のブラームス交響曲全集で初めて交響曲第1番の魅力に気付かされた感じがする。テンポは速めで切り込んでいくような部分がありつつも、第2楽章である一定以上の存在感がある低弦、柔らかく品よく鳴らした管の上を屋根で覆うかのようにヴァイオリンソロが響いたときには、とりわけ感動させられた。構造的に鳴らして、目立つヴァイオリンソロで他のパートをかき消さず、ソロ自体は目立ちはするけれど他のパートの動きをそれとなく堪能させてくれるような演奏だった。あるパートを強調しすぎたり、あるいはある楽器だけに勢いを与えたりすることがなく、それもまたクリアな響きの一助となっている。

 この全集でとりわけ気に入ったのは3番だった。3番自体は比較的聴く頻度は高かったものの、クリアな音楽の中に翳りを見出すことができる。特に第3楽章での管の柔らかく牧歌的な響きは非常に美しく、この演奏の白眉としてあげたい。勢いもありながら繊細さも随所で見られ、何度でも聴きたいと思わせられるような名演奏だと思う。

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フィリップ・ジョルダン(ウィーン響)。*4

 4曲ともに共通して言えることは、フィリップ・ジョルダンの音楽の特徴である、テンポ速めの切り込むような演奏、特に弦楽器で見られるキレの良さと、押しつけがましさの全くないきめ細やかな配慮・工夫、そして構造的、クリアに鳴らす新鮮な響きと解像度の高い演奏ということになる。これらが総合的に同居していることで、ベートーヴェンと同様、楽曲の良さを最大限に生かしている。そしてその構造的な響きを支えているのは低弦の存在感である。重心をある程度低く保ち、ただ重くなりすぎることは決してない。このバランス感覚は彼の最大の魅力のひとつであり、これはオペラ経験からくるものではないかと勝手に推察している。オペラでの、歌手の歌声を潰すことなくオーケストラを聴かせるには、あるいは歌手の歌声で繊細なオーケストレーションをかき消さないためにはどうしたらよいか、長年のオペラ座経験から緻密に作り上げてきたジョルダンの至芸があると私は思う。それを前回のベートーヴェン交響曲全集、そして今回のブラームス交響曲全集をはじめとするオーケストラでの演奏のときに最大限生かしているのではないだろうか…。

 

 私は今年最大の成果のひとつとして、フィリップ・ジョルダンの演奏と出会ったことを間違いなく挙げる。ジョルダンは今や私の最も推している指揮者であり、こんなに好みを隅まで突いてくるような演奏家にはこれまで出会えなかった。だからこそ、コロナ禍が明けたら、必ずジョルダン遠征のためにウィーンまで行くつもりである。オペラもオーケストラのコンサートも絶対に聴きたいと思う。すべてはベートーヴェン交響曲全集から始まったことだが、その成果は本当に大きいものだったと今になって思う。

 

www.hmv.co.jp

 それではこの辺で。