Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

Oper, Wiener Walzer, ein bisschen Symphonie, usw.

一期一会の世界に恵まれて ~2023年 演奏会総括~

 2023年も今日大晦日を残すのみとなった。これまで演奏会記録はTwitterにつけてきており、ブログという形で纏めたことはなかったが、今回学生時代最後の年度でもあるし、今年1年についてゆっくり振り返りたく思い、ブログで纏めてみることにした。

 今年は海外オーケストラ、国内オーケストラを中心に、55公演に触れることができた。その中でも、特に感動した演奏会について今日は振り返りたい。

今年4月の東京・春・音楽祭、プッチーニ《トスカ》。長年の目標だった「ブリン・ターフェルのスカルピア」を聴けて感無量だった。「これぞレジェンド」と思わせられる圧巻の歌唱だった。



1.海外オーケストラ

 まずは海外オーケストラの公演を振り返りたい。海外オーケストラには、合計7公演足を運んだ。その中でも特に感動した3公演を、時系列順にピックアップしたい。

 

①ラハフ・シャニ/ロッテルダムフィルハーモニー管弦楽団@大阪

 長い間聴きたかったシャニの実演に触れたのが、6月のロッテルダムフィルハーモニー管弦楽団の来日公演だった。プログラムはチャイコフスキー: ヴァイオリン協奏曲(Vn: 諏訪内晶子)と交響曲第6番《悲愴》を軸にしたもの。コロナ前以降久しぶりの実演となった諏訪内晶子の官能的で絡みつくようなチャイコフスキーに酔いしれただけでなく、何よりシャニが構築するチャイコフスキーの精緻さに感銘を受けた演奏会だった。均質なカンタービレで歌わせる主題を軸にしながら、整った響きの中で拘られた細やかなテクスチュアの移ろい、的確なアクセント付けで意識される主題の展開、歌う旋律同士が有機的に結合するチャイコフスキーの美質を最大限に生かしただけでなく、終楽章に向けた無理のない極致設計も鮮やかだった。何という美しい《悲愴》だろうか。こんなチャイコフスキーが聴きたかった。それを叶えてくれたシャニには感謝しかない。無念の中止となった11月のイスラエルフィルハーモニー管弦楽団も聴きたかった。

 

②シルヴァン・カンブルラン/ハンブルク交響楽団@福岡

 前述するシャニのチャイコフスキーを聴いた後、1か月でまたしても理想的なチャイコフスキーを聴く幸運に恵まれた。それがシルヴァン・カンブルランとハンブルク交響楽団による交響曲第4番だった。実はこの曲こそ、チャイコフスキー交響曲の中で最も好きな曲である。弦主体に精密に設計され、対位的な充実をこれでもかと魅せられては、「感動を超えて大感謝」という当時のツイートの言葉にも今更納得するしかない。爆発的な演奏に陥りやすいこの曲の、特に苛烈な主題に挟まれた沁みいるような叙情を自然ににじませながら、金管が突出せずに均整の取れた響きの中で劇的な物語を生み出した演奏にはひたすら感銘を受けるばかりだった。また、前半に演奏されたショパンの協奏曲でも、それまで面白さを見出せなかったこの曲に、独奏ピアノと管楽器の対話という魅力を見出せたのも、甘い情感表出を排し、金管ナチュラル楽器を使いながら室内楽的に設計するというカンブルランのアイディアがうまく楽曲と結びついたからであろう。

 

トゥガン・ソヒエフ/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団@ソウル

 11月にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団をソウルまで聴きに行ったことは、間違いなく今年のいちばんのハイライトとなった。指揮者のトゥガン・ソヒエフは確かに定期的にNHK交響楽団を振りに来ているが、私はどうしてもウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で聴いてみたかった。以前に配信で聴いたチャイコフスキー: 交響曲第4番が、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の響きを大切にしながらも、ソヒエフの独特な解釈を再現した素晴らしい演奏であり、ソヒエフがこの楽団と良好な関係を築いているように思われたからである。

 本当に行って良かったと思う。粘り強く歌を引き出すソヒエフ、光沢感と濃厚な艶を表出するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。両者の良さが対立するのではなく、互いにそれぞれの良さを理解した上で尊重しながら、片方だけでは決してたどり着けない高みにホール全体を連れて行ってくれた体験だった。特に2日目のベートーヴェン: 交響曲第4番とブラームス: 交響曲第1番は、この2曲で軽重、リズムと叙情などの対比を作りつつ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が伝統的に持っている固有の響きを最大限に生かしながら、それを尊重するようにソヒエフが粘り強く潜らせるような歌い込みと重戦車のような低い重心でたっぷり情感を吹き込んでいて圧倒的だった。それだけでなく、両者が音楽を心から楽しんでいる様子が音楽からも感じ取れ、聴いている私もその極上の響きに包まれてとても幸せだった。こんな演奏をまた全身に浴びたいと思わせられる演奏会だった。

パーヴォ・ヤルヴィNHK交響楽団で聴いたリヒャルト・シュトラウスアルプス交響曲》は、この楽曲に対する理解を深めることになった素晴らしい演奏だった。NHK交響楽団の聴衆が久々にヤルヴィを迎えた喜びも、カーテンコールに居合わせて存分に感じ取ることができた。

2.国内オーケストラ

 国内オーケストラは、地元の九州交響楽団を中心に通いながらも、遠征などを通じて在京オーケストラ、名古屋、関西と幅広く聴くことができた1年だった。コロナ禍では全くなかった声楽作品も多くなり、かなりレパートリーも広げることができた1年だったと思う。バッハ《ミサ曲ロ短調》、メンデルスゾーン《讃歌》、ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》、ロイド・ウェッバー: レクイエム、ブラームスドイツ・レクイエム》…宗教曲にも多く触れられた1年だった。以下、特に感銘を受けた5公演を時系列順に振り返る。

 

ユベール・スダーン/九州交響楽団(2月定期)

 スダーンを初めて聴いたのが、今年2月の九州交響楽団定期演奏会だった。この演奏会では、九州交響楽団のポテンシャルが遺憾なく引き出されたのではないか。メイ ンのシューベルト: 交響曲第8番(D944)では、木質の響きと弾むリズム、愉悦に満ちた繰り返しが幸せだった。この曲自体は実は長い間苦手としていたが、この実演を機に、こんなに楽しい曲だったのかと驚かされたものである。バッハに通じるような軽やかさとシューベルトの歌心を両立した演奏だったが、終楽章の怒涛の追い込みもまた非常に胸が熱くなるハイライトだった。これまで掴めなかった曲に楽しさを見出せるようになる。これこそ実演の醍醐味かもしれない。

 

パーヴォ・ヤルヴィ/NHK交響楽団(4月A定期)

 リヒャルト・シュトラウスアルプス交響曲》は、言うまでもなく私の最愛の楽曲のひとつだが、4月にパーヴォ・ヤルヴィNHK交響楽団と描いてくれた音風景は実に鮮やかで、説得力のある名演だった。ヤルヴィは明晰な響きで果敢に登山者を突き進ませていくが、頂上にたどり着いた瞬間にテンポをグッと落として眼下の世界があまりに壮大であることを突き付けてきたのである。この瞬間、私には自然のスケールの大きさと人間の相対的な小ささが鮮明に対比され、ヤルヴィの解釈がストンと腑に落ちた感覚だった。下山後のしっとりとした質感の哀歌には、自然に圧倒された人間の登山の名残惜しさが存分に感じられ、これはまさに「アンチクリスト」の名演だったのではないか。

 

鈴木秀美/名古屋フィルハーモニー交響楽団(6月定期)

 間違いなくこの1年、演奏会で最も幸福な瞬間は鈴木秀美/名古屋フィルハーモニー交響楽団によるベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》の「ベネディクトゥス」で舞い降りてくるヴァイオリン独奏を聴いたときだっただろう。「クレド」「グローリア」での積極的な信仰告白が報いられ、天上からシルクのように柔らかく品のある光沢を帯びたヴァイオリン独奏が螺旋階段のように舞い降りる。この瞬間ほど幸せな瞬間はなかっただろう。全体として完全なピリオド・アプローチだが響きに温かさがあり、心の中の空気が全て入れ替わったような清々しさがあった。鈴木秀美の演奏会に触れるたびにさまざまな発見をしてきたが、この《ミサ・ソレムニス》でもテクストと楽器の結びつきが充実しており、新鮮な感動を得ることができた。国内オーケストラの演奏会では、今年いちばん印象深かったといって間違いない。

小泉和裕の演奏会には数多く触れてきたが、中でも東京都交響楽団とのブルックナー: 交響曲第2番の演奏はその真骨頂だった。魅力が全て出た感動的な名演。聴いた後しばらく鳥肌が収まらなかったのを、昨日のことのように思い出す。

小泉和裕/東京都交響楽団(10月B定期)

 小泉和裕は何度も書いている通り、私が最も聴いてきた指揮者であるが、その魅力は主題回収に重きを置いたぶれない解釈と堅牢に構造を掴む骨太の音楽にあると言って良いだろう。だからこそ聴く度に新たな発見が必ずある。

 10月に東京都交響楽団で聴いたブルックナー: 交響曲第2番は、小泉和裕の真骨頂だった。間違いなく、今まで聴いた小泉和裕の演奏会で最も解釈の再現度が高かった。ブルックナー交響曲第2番は、彼の交響曲の中でも大好きな曲のひとつだったが、解釈も納得感のある安定したものだった。明確に刻んだリズム動機に、濃厚にテヌートした旋律が有機的に対話し、高密度のトゥッティに生命力が吹き込まれ続ける。展開するたびに熱を帯びる小泉和裕の指揮。旋律が次々と実を結び、開放感のあるフィナーレに至ったときには茫然自失で、思わず涙ぐんでしまった。一方、丹念に掬いながら織り込んでいく第2楽章も息を呑むほど美しかった。小泉和裕の大好きなところが存分に出た、感動的な演奏会だった。このコンビは今後も定期的に聴いていきたい。心の底からそう思った。

 

小泉和裕/九州交響楽団(12月定期)

 小泉和裕九州交響楽団音楽監督をしていることは、明らかに楽団にプラスに働いていると思う。その理由が、大編成と声楽付き作品にある。どのようなホールでも確実に響きを作る小泉和裕の職人的な技術が、九州交響楽団のアンサンブル力を高めたことは、コロナ禍以後に本格的に聴き始めたこの数年でも明らかである。

 そんな小泉和裕が、九州交響楽団で12月に取り上げたのが、ブラームスドイツ・レクイエム》だった。コロナ禍で曲目変更となった第400回定期演奏会で取り上げる予定だった曲目だけあって期待も大きかったが、その期待を超える素晴らしい演奏だった。統率された合唱と豊潤なオーケストラが調和し、滑らかに包み込まれるような歌に癒される1時間10分だった。

 そんな中で、地上から天上へ上り、天上を称え、地上に降りてくる様がまるで登山のようだった。第1曲で地上を慰め、第2曲では力強く牽引力のある登山が始まる。第3曲ではバリトン独唱が天上の扉を叩き、赦されて第4曲で合唱は天上へ向かう。第5曲では、ソプラノ独唱と共に天上を称える。第6曲では下山するが、途中嵐が起こり苦悶する。第7曲では地上に戻ってくるが、第1曲にはなかったヴァイオリンが加わって充足感に満たされる。この曲は第5曲を中心とする対称構造ではないか。地上では中低音が活躍し、天上では高音が活躍する。リヒャルト・シュトラウスを見出すような妄想をしながら聴いたのをよく覚えている。シュトラウスご本人には怒られそうだが、特に《アルプス交響曲》との連関を妄想してしまったのだった。

 話が飛躍してしまったが、そんな想像を膨らませるぐらいには、この演奏には発見が多かった。小泉和裕の指揮は安定している。それが私に謎解きのような発見を与えてくれるのは毎回のことだが、九州交響楽団を定期会員で聴いてきて、特に発見が多かった演奏が、この《ドイツ・レクイエム》だったことは間違いない。また、小泉和裕の大編成や声楽作品に触れられる日が待ち遠しい。

 

3.室内楽公演

 リサイタルなどの室内楽公演には今年も一定数触れることができたが、そのいずれもが高水準の感動体験であり、特にピックアップするのが難しい。特に、高校の先輩にあたる中村太地さんのリサイタルやトリオ公演には毎年感銘を受けているので、是非取り上げたかったのだが、今回は特に鮮烈すぎる体験を提供してくれた以下3公演を振り返ろうと思う。図らずも3公演ともピアノリサイタルである。

 

ファジル・サイ@福岡

 ファジル・サイは作曲家でもある。一度彼の作品に実演で触れる機会があったが、非常に興味深い作風だった。したがって、来日してバッハ《ゴルドベルク変奏曲》やシューベルトピアノソナタを弾くとなると、期待せずにはいられなかった。

 1月に実演に触れてみると、それは想像をはるかに超える衝撃的とでもいうべき体験だった。作曲家らしく楽曲を解剖し、他称的な視点から鋭く削り、氷のように冷たい響きで解釈された明晰なピアニズムがとにかく面白かった。三人称的な視点から解釈しているのにもかかわらず、《ゴルドベルク変奏曲》のト長調の快楽に挟まれた、ト短調の押し込められた哀しみの美しさは格別のもので、昨年10月に聴いたラン・ランの同曲と 丸っきり異なる印象を受けた。そしてアンコールのドビュッシーの混じりけのない純粋な世界が銀世界のような美しさだった。私と彼は全く別の世界を見ている。強烈な体験だった。

 

アンドラーシュ・シフ@川崎

 10月に川崎で聴いたアンドラーシュ・シフ。プログラムは当日舞台上で発表され、シフの解説付きで旅する演奏会。これもまた新鮮だった。磨かれたまろやかな響き、自然に湧き出る叙情。長旅に楽しく御伴させてもらった充実した時間だった。特にシューマンダヴィッド同盟舞曲集》は一度聴いてみたかった楽曲で、それをシフの素晴らしい演奏で聴くことができたのが嬉しかった。「フロレスタンとオイゼビウス」このふたりの対比を、しっとりとした歌と燃えるような葛藤の中に見出した演奏だった。また、ベートーヴェン: ピアノソナタ第17番《テンペスト》も、ベートーヴェンの楽曲の中に清澄な響きのバッハと、深い彫琢、とりわけ迫りくる低音の反復の中にシェイクスピアの持つ劇的な昂ぶりを感じられ、この両者の見事な融合に心躍った時間だった。

川崎で聴いたアンドラーシュ・シフの解説付きのリサイタル。シフの音楽観を演奏だけでなく、言葉を通じても垣間見た特別な体験だった。長旅に楽しくお付き合いし、非常に充実した学びのひとときだった。

③藤田真央@福岡

 シフの3週間後に聴いた藤田真央も屈指の感動体験だった。劇的ながら明快、決して濁らず澄み渡る響き、そして藤田真央ならではのさまざまな創意工夫。今年のリサイタルで藤田真央は4度目だったが、最も感動した演奏会だった。最強音の直後に間をとって、その余韻から繊細に滲ませた弱音の美しさには何度も息を呑んだし、リストのロ短調ソナタでの苛烈な強音とまろやかに歌わせた弱音の対比も印象的だった。そして何より、岡田暁生西洋音楽史』p. 111で指摘されているチェリビダッケの言葉「交響曲は拡大された弦楽四重奏であり、弦楽四重奏交響曲のミニチュアだ」を聴きながら思い出した。これが何を意味するのか。いかに藤田真央の左手と右手の結びつきが有機的であり、音楽が立体的だったかということだろう。



4.その他

プッチーニ《トスカ》[演奏会形式](フレデリック・シャスラン/読売日本交響楽団

 東京・春・音楽祭で実演に触れたプッチーニ《トスカ》も忘れられない体験となった。オペラ聴き始めの頃であったこの作品だが、そのときスカルピアを歌っていたのはブリン・ターフェルだった。あの凄まじい眼光をどうしても忘れられず、今回の実演は逃せないと思っていたので、この公演はプログラム発表時から楽しみで仕方がなかった。

 そして、長年の目標がまたひとつ叶った。人生の目標のひとつが叶ったと言っても良い。円熟味を増し、渋みを増したターフェルから滲むような皮肉的な表現、堂々たる歌唱… レジェンドとはこういうものなのかと打ち震えたあの立ち姿とオーラを忘れられない。これが見たくて、聴きたくて演奏会に通っているのだと本気で思った。あそこまでスカルピアになりきれる歌手はどれほどいるのだろうか。圧倒されてしまった。他のキャストも当然良かったのだが、ターフェルの凄みにすべて持っていかれたような心地だった。もちろん、劇場指揮者シャスランは手堅くツボを押さえた指揮で、プッチーニの恍惚とするような響きと旋律の美しさ、劇的な感情の起伏を歌手にピタリとつけた職人技を披露しており、その指揮ぶりも素晴らしかった。

 

②ソニア・ヨンチェヴァ ソプラノ・コンサート(フランチェスコ・イヴァン・チャンパ/東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

 今を時めくソプラノ、ソニア・ヨンチェヴァのプッチーニに惹かれたのはいつのことだったか… このソプラノを実演で聴く機会がどうしても欲しい。そう思いながら、昨年は東京に遠征しながら他の公演とバッティングしてしまって聴けずにいた。そしてようやく都合がついたので、9月に東京に飛んでリサイタルを聴くことができた。

 彼女の素晴らしさ…各役柄を芯から咀嚼して解釈し、自らなりきってしまうところを目に焼き付けることができて本当に良かった。白葡萄のような淡い色彩感と輪郭の丸さ、美しい歌唱で繊細に描かれる心の動きの機微を捉えたときの喜びは格別だった。特にプッチーニマノン・レスコー》のアリアでは、絶望感と悲哀が管弦楽と一体となってうねり、思わず共感し、同情してしまうような没入感だった。こんな歌手をこれから何度聴けるだろうか。聴きに来れてよかったと心底思わされるコンサートだった。願わくば、ヨンチェヴァの《マノン・レスコー》を舞台で全幕観たい。そんな新たな目標もできた。

九州交響楽団には今年もお世話になった。書ききれなかったが、沼尻竜典指揮によるリヒャルト・シュトラウスサロメ》も、官能性と劇的な起伏、2点の極致設計に感銘を受け、この作品に対する学びが多かった体験だった。

 振り返りが非常に長くなってしまったが、今年も充実した1年だったことは間違いないようだ。ただ、今年はやはり演奏会に通いすぎたきらいもあるので、来年からは量より質、ひとつひとつの演奏会に集中して、これまでより遥かに多い情報量を捉えられればと思う。来年も感動的な演奏会に多く巡り合えますように。