Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

Oper, Wiener Walzer, ein bisschen Symphonie, usw.

ショルティ&ウィーンフィルによるシュトラウス《ばらの騎士》(1968-'69年)

 普段あまりすすんで聴かない指揮者のひとりがサー・ゲオルグショルティ(1912-1997)である。もともと私はショルティの音楽が苦手で、聴くのをためらってきたのだが、シカゴ響とのベルリオーズ幻想交響曲*1などを聴くうちに、ショルティでも好きな音源も増えてきた。今回取り上げるウィーンフィルとのシュトラウスばらの騎士》は、初めて聴いたときにはやはり苦手意識が残ったのだが、それ以来少しずつショルティの他の音源も聴いてきたので、今聴いてみるとどのように聴こえるのか楽しみであった。

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サー・ゲオルグショルティ(ロイヤル・オペラ・ハウス)。*2

 オーケストラはウィーンフィルなのだが、やはりショルティが振るとアンサンブルが引き締まり、硬質な響きへと変化する。第1幕前奏曲から速いテンポで引っ張り、ホルンをはじめとする金管の鳴りもウィーンフィルとは思えないほどだ。また、拍節感がしっかりとしているのもショルティならではで、例えば第1幕の朝食のシーンでは、他の演奏と比べて、ホルンに明瞭に刻ませている。弦もかなり硬質で、アクセント付けや強弱表現、グリッサンドなども明晰で、余計な情感を排除した解釈のように思われる。明確な表現と陰影をできるだけそぎ落とした響きは充実したキャスト陣の明晰な発音とも合致し、オーケストラと歌唱のそれぞれが持つ「意味」を補完しあっているように思う。すなわち、オーケストラではオクタヴィアンや元帥夫人マルシャリンの音型などを明らかにし、歌唱での歌詞と対応させることで、歌詞の奥に含意が表現されていると思うのである。その明確な表現に必要なのが、ショルティが求める各楽器の芯のしっかりとした「発音」だと考えられる。

 例えば、第1幕でオックス男爵が登場する直前では、金管の大袈裟なようにさえ思われる強奏が印象的だ。オックス男爵が登場している場面と登場していない場面との間に明確な区別をつけたかったのだろうか。確かにオックス男爵が登場している場面の「ワルツ」に特筆される陽気さ、いわば「オペレッタ的」な感覚と、元帥夫人マルシャリンのモノローグや第3幕フィナーレの三重唱など、マルシャリンのみが登場している場面でのシリアスな感覚の描き分けという意味で、このトゥッティの強奏は非常に大きな役割を果たしているのかもしれない。

 ショルティのこんなにも曇りなくくっきりと輪郭を描くような演奏は、過去のウィーンでの《ばらの騎士》とは明らかに一線を画している。特に随所で金管を鳴らすなど、ショルティの特徴が演奏を非常にドラマティックなものに仕上げていると思う。個人的には強弱のつけ方が場面によっては過剰に思われる部分もあったが、切れ味鋭く、幅広い強弱付けをもたらし、明晰な表現を志向するショルティの音楽づくりは、シュトラウスの書いた複雑な楽譜を細部まで炙り出すとともに、物語の展開に緊張感を与えるという点では印象的なものである。また、ショルティの個性的な音楽により、「ここにスネアがあったのか」などと新しく発見することも多かったのである。

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ジーヌ・クレスパンの元帥夫人マルシャリン(左)。オックスはマイケル・ランドン(シアトル・オペラ。1969年)*3

 キャストの中でもまず注目すべきなのは、レジーヌ・クレスパン(1927-2007)による元帥夫人マルシャリンであろう。クレスパンはフランス人のソプラノだが、バイロイト音楽祭への出演からも分かるように、ワーグナーでの当たり役も多かった*4。実際にクレスパンのマルシャリンを聴いてみると、ドイツ語の明晰な発音が魅力的であるだけではなく、全体的に歌唱に余裕を感じられ、性格付けも非常に細やかだ。また、しっとりと柔らかく、完璧にコントロールされた瑞々しい声には、マルシャリンの気品が存分に感じられる。ひょっとするとそれは《カプリッチョ》の伯爵夫人マドレーヌのフランス貴族の気品に通じるものなのかもしれない。感情表現を取り出して言えば、特に第1幕のモノローグでは、初めは透明感のある声で歌ってたのが、オーケストラが速度を落とし、翳りを与えていくにしたがって、どんどん暗い声へと落ち込んでいく様子は見事だった。確かにクレスパンの柔らかい声には包容力があるが、しっかりと方向性が定まっており、決してビブラートが大きくなりすぎず、老け込みすぎないのがかなり魅力的である。第1幕のモノローグでも、その後のオクタヴィアンとの二重唱でも、声色の変え方は確かな技術に裏付けられた素晴らしいものであり、明晰な発音も崩れずに、マルシャリンの心の内が滲むように表現されるのには、思わず感情移入しそうになってしまう。

 そして何と言っても魅力的なのがマンフレート・ユングヴィルト(1919-1999)のオックス男爵である。ユングヴィルトはオーストリア人のバスで、オックス男爵は当たり役のひとつにしていた。映像記録として、カルロス・クライバー(1930-2004)指揮、バイエルン国立歌劇場の1979年のライブがある*5。今回のショルティ&ウィーンフィルによる録音はそれよりも10年前のものであるが、すでにユングヴィルトは訛りやコミカルな性格付けなどに長けていたことが伺え、充実のオックスを演じ切っている。それにしても、味付けは濃いように見えて濃すぎない匙加減は、この時代に活躍したオックス歌いに共通してみられる魅力で、ユングヴィルトだけでなく、例えばカール・リッダーブッシュ(1932-1997)やテオ・アダム(1926-2019)などが挙げられる。粗野な面は見せつつも、田舎貴族ではあるが、貴族として気品を残すユングヴィルトのオックスは聴いていて頷かされる部分が非常に多い。特に第2幕のオックス男爵のワルツではオーケストラの弾みを生かし、やや禁欲的なオーケストラに「古き良きウィーン」の味がついているのがまた良い。

 オクタヴィアンを歌うのはイヴォンヌ・ミントン(1938-)である。非常に若々しく、凛々しいオクタヴィアンだという印象を初めに持った。ミントンは非常に幅広い声域で知られた歌手だが、オクタヴィアンでもそれが無理なく歌唱に行かせているだけでなく、繊細な表現を可能にしている。例えば、第1幕のフィナーレでのマルシャリンとのモノローグでは、落ち込むマルシャリンを情熱的に引き止めたり、第2幕のオックス男爵が登場する前のゾフィーとの二重唱では心ときめかせたり、歌い方の端々に無理のない工夫が感じられるのが素晴らしい。全ての工夫にわざとらしさが全くなく、それでいてオクタヴィアンの心情変化を的確に掴んでいるのである。1972年にミントンはオクタヴィアン役でメトロポリタン歌劇場デビューを果たしている。

 ゾフィーを歌うヘレン・ドナート(1940-)はゾフィーを得意にした歌手のひとりであるが、この録音では初々しいゾフィーを演じ切っていて魅力的である。特に第2幕冒頭などは結婚に心弾む様子が伝わるような、上へ上へと意識された歌唱である。混じりけのない張りのある声は素直に美しく、純真なゾフィーが聴いて取れる。第3幕でマルシャリンと対面し、恐縮しつつ恥じ入る様子や第3幕フィナーレで希望と不安の両方を抱えたように感じられる歌唱は、ドナートの真骨頂と言えるだろう。

 そしてここまで明晰な音楽づくりをしているショルティだが、第3幕フィナーレの三重唱で三者三様の歌唱とそれを支持するオーケストラの関係が比較的はっきり聞き取れるのはこの録音ならではだろう。本来この三重唱は管弦楽と声楽による巨大な「交響詩」的な音楽であるため、素直に塊として聴かせようとするのなら、美しく恍惚とするような響きに包まれる心地になるだろう。ショルティの場合、ウィーンフィルの本来のシルキーな響きを生かしながらも、卓越したバランス感覚から、投網のように各歌手と各楽器の対応関係がはっきりとわかるのが非常に面白い。歌詞が明瞭に聴き取れるというよりは、どの歌手とどの楽器が対応しているかを改めて知ることができる演奏のように感じられた。なお、ショルティシュトラウスの葬儀の折にもこの三重唱を指揮したことが知られている*6

 

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ウィーンフィルと録音を行うサー・ゲオルグショルティ*7

 ファニナルに熟達のオットー・ヴィーナー(1911-2000)、ヴァルツァッキに経験豊富なマレイ・ディッキー(1924-1995)など、他のキャストも非常に充実している。DECCAらしいのは、イタリア人テノールに若き日のルチアーノ・パヴァロッティ(1935-2007)をキャスティングしているところであろうか。ただ、パヴァロッティが歌うこの役には少し違和感があった。イタリア風アリアのパロディであっても、このテノールが歌うアリアはイタリア・オペラのスターが歌うとなぜか違和感があるように思う。

 

 上品さが滲むクレスパン、粗野ながら貴族を体現した最高のユングヴィルト、若々しく瑞々しいミントンとドナートをはじめとする充実のキャストもかなり魅力的ではあるのだが、何と言ってもやはり、この録音で重要な点は、完全ノーカットであるところだろう。過去にエーリッヒ・クライバーが同じくウィーンフィルとセッション録音したものが確か完全ノーカットだと記憶しているが、特にライブではシュトラウス自身が認めたものとはいえ、カットが多いものもたくさんある。そのため、シュトラウスの書いた《ばらの騎士》の全容を知るのにこうしたノーカットの録音は重要である。ショルティウィーンフィルと録音したこの《ばらの騎士》の録音は決して私の好みに合うものとは言えないものの、貴重な完全ノーカット盤としてこの録音も今後の《ばらの騎士》の鑑賞に役立てていきたい。