Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

Oper, Wiener Walzer, ein bisschen Symphonie, usw.

演奏会という非日常への旅を志向して

 「私は何のために演奏会に通っているのだろう」-ルートヴィヒ・ファン・ ベートーヴェン (1770-1827) のピアノソナタ第11番を聴きつつ、今年1年の演奏会記録を見返しながら、ふとこんなことを考えた。クラシック音楽が好きだから、オーケストラが好きだからと言っても、年間数公演しか演奏会に行かない人も周りにいるのに、なぜ私はこんなに演奏会に通っているのだろう。そもそも、私が演奏会に求めてきたものとは何なのだろう。ふと訪れた疑問が頭の中を渦巻き妄想が妄想を飛躍させる。それでも、折に触れて根源的な疑問について熟考することは大切だと思うので、思考を整理して記録として残す意味合いで、今回は書き起こしてみようと思う。

 そもそも、そんな疑問を深刻に捉える必要はないのではないか。確かにそうである。クラシック音楽を聴くこと、特にコンサートホールという場所で生の音楽に触れることにはかけがえのない喜びがある。だからこそ、「実演に触れるのが好きなのだから、そんな疑問に付き合わなくても良いではないか」と今まで思ってきた。特に大学に入学して数年は、コロナ禍明けほど多くの回数行くこともなかったし、別の都市に遠征することもほとんどなかったから、考える必要もなかった疑問である。しかし、コロナ禍明けから4年間を見てみると、特にここ3年は年50回以上演奏会に行くまでに至った。もちろん繁忙期と閑散期はあるが、平均すると1週間に1回は演奏会に行っている計算になる。もはや、日常に溶け込んでいるレベルという計算結果になってしまったのである。

旅と演奏会を組み合わせた最たる例は、トゥガン・ソヒエフ(1977-)の指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を聴きにソウルまで飛んだ(2023年11月)ことだろう。旅先での観光と演奏会が紐づけられた有機的な体験だった。

 振り返ってみれば、大学に入学した当初は、演奏会に「通う」という発想はなかった。そもそも演奏会のチケットは総じて高額なものだと思い込んでいた。しかしそれ以上に、初めは「録音などで見たことのある名前」を実演で聴いてみたいという、いわば「特別感」みたいなものを演奏会に求めていた。それまで録音でしか聴いたことのない演奏家の音楽が生まれる、まさにその場を体感したい。同じ空間に触れたい。心震える体験をしたい。そういったことを演奏会に期待していた。そのため、演奏会に行くという行為は、「非日常を楽しみに行くこと」とまったく同義だったのである。したがって、演奏会に触れるようになった初期のころは、演奏会には月1回行くか行かないかという程度だった。

 私の演奏会活動が変化し始めたのは、九州交響楽団の演奏会に触れるようになってからだろう。それまで海外オーケストラの来日公演などしか触れていなかった私が、ある日大学の友人に「合唱で乗るから」と誘われて行ったのが、グスタフ・マーラー (1860-1911) の交響曲第3番の演奏会だった(2019年7月27日)。正直な話、マーラー自体それまでほぼ馴染みのない作曲家だったし、まして九州交響楽団はもっとなじみが薄かったので、掴みどころのない状態で私は会場に向かった。このときは、想像以上の素晴らしい演奏に驚いたのはもちろん、それまでほぼ一緒に聴きに行く人がいなかった私が会場で温かい聴衆の皆様やお見送りの楽団員の方々と知り合えたことで、私はその後九州交響楽団の演奏会に通うようになっていった。通うにつれて、先輩の聴衆の方々から音楽についてさまざまなことを教えていただいたり、そこから新たな繋がりが生まれたりして、音楽についての知識も経験も格段についた。また、コロナ禍以降は定期会員になり、好きな曲も苦手な曲も、馴染みが深い曲も全然聴いたことがない曲も、食わず嫌いせずにさまざま聴いたことによって、私の趣味はますます深く分厚いものとなった。ここまでくると、演奏会を軸に予定を考えるなど、演奏会はすっかり日常に浸透してしまっていた。私にとっては、日常的に音楽について「学ぶ」機会を提供してくれる場、これがこのころからの九州交響楽団の演奏会だと考えている。

 しかし、コロナ禍後は特別なものだった演奏会がその後日常に浸透してしまうと、今まで楽しみにしてきた「特別感」が薄れてしまう。ここに私はどうしても満たされないものを感じていた。特別感を作るために、ネクタイコーデに凝り始めたり、遠征して来られる方との会食機会を積極的に作ったりもした。音楽について新たな発見を提供し、学び続けられる場として、演奏会は日常的に必要だと考えていたものの、それに付随する予定などに特別感を見出し始めたのである。結局この試みは私の音楽鑑賞をさらにそこの深いものにしたという点で、非常に意義深いものとなった。とりわけ首都圏から来られた方の中には、音楽についてのみならず、立ち居振る舞いなどで目標にしたいと思う方もいらっしゃった。さまざまな経験から、私の趣味と共に内面も再形成されてきたのを私は感じていた。

ダニエル・バレンボイム(1942-)のピアノリサイタル(2021年6月)を聴きに名古屋を訪れたときの鮮明すぎる記憶。今でも愛知芸術文化センターを訪れるたびに、このときに聴いたベートーヴェンの演奏が脳内再生されてしまう。

 その方が良くおっしゃっている「旅と演奏会を組み合わせること」- このコンセプトも良いかもしれないと私は考え始めた。特に印象に残っているのは、ダニエル・バレンボイム (1942-) の来日公演で名古屋を初めて訪れた時のことである。コロナ禍で来日公演がすっかり減ったことも、演奏会に特別感を見出す難しさを痛感した要因だった。そんな中、ついにバレンボイムが来日してピアノリサイタルをするという。海外アーティストの来日が難しくなった中、クラシック音楽聴き始めから名前を知っている演奏家が来日する。しかも80歳近くでの来日だから、次回がある保証はない。このとき私は、大学に入学した当初の演奏会の喜びを思い出したのである。「これは必ず立ち会わなければならない」と思った私は、名古屋公演のチケットを入手し、名古屋へと飛んだ。目の前にバレンボイムがいて、平行弦ピアノから清澄なベートーヴェンを奏でる。その1時間半は忘れられない思い出となった。

 このときから名古屋には何度か訪れた。一度聴いてみたいと思っていた名古屋フィルハーモニー交響楽団も数度聴いた。そこで聴いたアントン・ブルックナー (1824-1897) の交響曲第5番リヒャルト・シュトラウス (1864-1949) の《アルプス交響曲》は強烈に脳裏に刻まれた演奏だった。これらの曲は、バレンボイムベートーヴェンとともに、今年6月に名古屋を訪れた際に自然と脳内再生され、蘇ってくる記憶と化していた。旅と演奏会を組み合わせること - その地域それぞれの風土をじかに感じる旅と演奏会の記憶が紐づけられることで、より強固な思い出になっていることが私には新鮮だった。この特別感を味わいたい欲望にどうしても抗えず、バレンボイムベートーヴェンを聴いて以降、私は福岡での演奏会を調整して遠征回数を増やしていくことになった。

ヴァレリーゲルギエフ(1953-)の指揮するミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団を聴いた演奏会(2018年11月)が、アクロス福岡での鮮明に記憶に残っている演奏会で最も古いものである。この演奏会がきっかけで、実演の凄さに惹かれて演奏会に行くようになった。

 どうやら私は、個々の演奏会に「特別感」「新鮮さ」を求めているらしい。これまでユースチケットや定期会員の恩恵にあずかり、私は格安でたくさんの演奏会を体験することができたように思う。もちろん、それ自体は非常にありがたいことである。しかし、日常の中に演奏会がすっかり浸透してしまうと、アクロス福岡に足を運ぶこと自体が全く新鮮なことではなくなり、演奏会から特別感を得るのが難しくなってしまった。聴いている音楽の大半が同一の演奏家の音楽であれば、ホームグラウンドの安心感と引き換えに、なおさらその新鮮さを感じるのが困難になる。加えて、演奏会は聴く方も体力を要する。実際に回数が増えすぎてしまうと、ひとつひとつの演奏会に対して集中力が不十分になり、その内容がぼやけてしまう経験もした。それでは、本来の私の目的からすると、わざわざチケット代を払って聴きに行く機会を大切にしていると言い難いとも思う。どのようにして演奏会に「特別感」を見出すか、それが現在の私の悩みである。

 学生時代は定期会員という制度を使い、曲目に対する興味の有無に関係なく、さまざまな演奏会に満遍なく触れることができた。このことにより、クラシック音楽に対する興味の幅も広がり、特に「なぜこの演奏家はこの解釈をするのか」について思いを巡らせるようになった。この「聴き方」の基本的な部分が養われたことは、学生時代年間50回演奏会に通った成果である。同じ演奏家だからこそ、指揮者や作曲家による違いに気づきやすくなる。この基礎を作ってくれた九州交響楽団には本当に感謝してもしきれない。

 では、その「基礎」の密度が増してきた今、どのようにして演奏会を「新鮮な体験」にしようか。そのヒントが「旅」であろう。先に述べたように、旅と演奏会を組み合わせることで、その土地の風土をじかに感じる体験と演奏会が紐づけられ、より強固な思い出が形成される。その土地を訪れると、以前に聞いて感動した演奏が脳裏に蘇ってくる。旅とともに、演奏会が「非日常」の一部となり、より新鮮な体験となるのは間違いない。また、旅をして旅先のオーケストラを聴くことで、地元の九州交響楽団と違った良さを見つけることもできた。普段福岡にいて九州交響楽団のみを聴くのではなく、旅をして旅先のオーケストラを聴くことで、九州交響楽団も違った切り口で見られる。旅先のオーケストラと地元のオーケストラ、それぞれで異なる魅力を感じられるのである。

 ただ、個人的に演奏会に行くこと自体がマンネリ化していることは否めない。初めてコンサートホールに入ったときの高揚感。これから演奏会が始まるというときの緊張感。桁違いの情報量を浴びて呆然とする満足感。これらをフルに受け止められていないのではないか。演奏会の回数が多くなるにつれて、トレードオフのように新鮮味は失われていく。そんな中旅先で再び感じた高揚感や緊張感、満足感。ホームでもアウェーでも、そもそもコンサートホールという異世界を訪れる新鮮な体験、「会場に訪れれば以前の演奏で感動した記憶が蘇る」体験をこれからも大切にしたい。そのためには、無理のない演奏会計画を立て、ひとつひとつの演奏会に万全の集中力をもって臨まなければならない。

アンドリス・ネルソンス(1978-)とボストン交響楽団の演奏会は、京都と大阪に聴きに行った。特に、京都でのリヒャルト・シュトラウスアルプス交響曲》は鳥肌が立ちっぱなしの感動体験。次に京都コンサートホールを訪れるときも、きっと脳裏に浮かぶだろう。

 九州交響楽団の定期会員で日常的に育ててもらったからこそ、大学卒業とともに演奏会との付き合い方を変え、ひとつひとつの演奏会に「特別感」を見出したい。確かに演奏会に没頭することは素晴らしいことだと思うが、結果的に回数を減らして厳選した演奏会から、これまでの2倍、3倍の情報量を得られれば、充足感も全く違ったものになるだろう。

 

 学生時代を終えたら、「量」より「質」を大事にしよう。演奏会という「非日常」に旅をしよう。そんなことを思う今日この頃。