Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

Oper, Wiener Walzer, ein bisschen Symphonie, usw.

抗いがたい同調圧力 ーショスタコーヴィチとベートーヴェンー

 昨日9月25日は、ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)の誕生日だった。私自身決して好きだとは言えない作曲家で、録音、実演ともにどうも積極的に聴こうという気分になる機会が少ない。それでも、これまでショスタコーヴィチの実演に触れてきて、掴めないながら感動する不思議な感覚に自然となった体験もある作曲家である。

 しかしながら、思えばショスタコーヴィチを積極的にと言わずとも、聴く機会はかつてに比べると段違いに増えた。いちばんの理由はアンドリス・ネルソンス(1978-)の指揮するボストン交響楽団で聴いた交響曲第5番が鮮烈な名演に心の底から感動し、最大限の賛辞を贈りたい気持ちになったことで、上手く「楽曲に乗せられてしまった」というものだろう。それから先、私は少しずつショスタコーヴィチに触れるようになった。今では時折聴きたくなる録音すらある。

ショスタコーヴィチの実演で初めて感動したのは、アンドリス・ネルソンス(1978-)とボストン交響楽団の大阪公演(2022年11月)だった。それまで共感したこともなかったショスタコーヴィチに気づけば没入してしまっていた。

 実演にしても、録音にしても、それまでどうも掴めなかった楽曲や作曲家、演奏家に対して、霧が晴れるような爽快な景色を見ることは、この作曲家に限らず何度も起こってきたことではあるのだが、どうしてもショスタコーヴィチには異質なものを感じてしまう。例えば、ヨハネス・ブラームス(1833-1897)、グスタフ・マーラー(1860-1911)、アントニーン・ドヴォルジャーク(1841-1904)…といった作曲家ーいずれも好きになるのに時間がかかった作曲家ーとは、その過程も明らかに異なる印象を受けるのである。

 実は、その大きな要因として考えつくことがないわけではない。ショスタコーヴィチには、まだ残念ながら「好きな曲」が存在しない。普段からあまり聴かない作曲家でも、ある日突然聴くようになる場合はたいてい「好きな曲」から入ることが多かったのだが、そういう感覚がこの作曲家には全くないのである。例えば、ブラームスであれば、交響曲第2番に初めて出会ったときに心がざわついた。マーラーであれば、小泉和裕(1949-)指揮、九州交響楽団による交響曲第3番の実演が全てを変えた。ドヴォルジャークであれば、交響曲第7番との出会いがこの作曲家の叙情性に惹かれる主要因となった。しかしながら、ショスタコーヴィチにはこうした恋愛的な出会いが全くない。ショスタコーヴィチが好きかと問われても、「別に特には…」という答えになるだろうし、むしろ苦手にしている部分も大きいのである。

 ところで、私がショスタコーヴィチの音楽でこれまで苦手にしてきた部分とはいったい何なのだろう。例えば、交響曲第8番の第2楽章を初めて聴いたとき、好きな方には申し訳ないが、とても正直な感想として「何と鬱陶しい曲なんだ」と思わずにはいられなかった。交響曲第7番《レニングラード》のフィナーレを初めて聴いたとき、「何と暑苦しい同音反復なんだ」と思わずにはいられなかった。でも、この不快感の奥にある原因がわからず、ずっと心が疼くような心地がして、ショスタコーヴィチからは離れていった。それでも、編成の小さな交響曲第9番の軽やかなリズムや軋むような諧謔性には面白さすら感じていたことから、この観点には当初から特段苦手意識はなかったと思う。

 あるとき、ショスタコーヴィチ交響曲第5番の終楽章を聴きながら、これは本当に勝利の凱旋を自発的に祝っているのかという違和感を覚えたのを思い出す。先のネルソンスとボストン交響楽団の実演の予習のために聴き始めた、セミョン・ビシュコフ(1952-)とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団による録音を聴いていた時のことであった。ニ短調からニ長調に転じ、ドヴォルジャーク交響曲第7番のように明るいフィナーレへ向かっても良いはずなのに、どこか息苦しさを感じた。最後のティンパニの気迫の打撃には、高らかな勝利の感覚は全くなかった。そこには「祝え!祝え!」と強制され、押しつぶされるような緊張感に統制された大政翼賛的な賞賛を感じずにはいられなかった。賞賛以外は許されない、皆が全く同じ方向を向くこと以外は許されない自由度のなさがそこにはあった。まるで、「勝利を祝えないものは輪から出ていけ」と言わんばかりの圧力を堂々とかけられているような心地がした。

 

ウィーン19区の「ベートーヴェンの散歩道」。小川がせせらぎ、長閑に時が流れる。まさに交響曲第6番を見ているような景色である。(2019年3月)

 

 「ひとりの友の友となるという大きな成功を勝ち取った者、心優しき妻を得た者は彼の歓声に声を合わせよ。そうだ、地上にただ一人だけでも心を分かち合う魂があると言える者も歓呼せよ。そしてそれがどうしてもできなかった者はこの輪から泣く泣く立ち去るがよい」(ベートーヴェン: 交響曲第9番 第4楽章より)

 

 思えば、ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770-1827)という作曲家も、私が長年苦手意識を感じていた作曲家だった。初めて実演で聴いた交響曲第5番に、私は嫌悪感すら感じていた。全く知らない赤の他人に、殴りかかるように物申すその無礼さが信じられなかった。たとえ偉大な作曲家様だとしても、凄まじいエネルギーで初手から罵詈雑言を吐くような口調に耐えきれなかった。そして、光がさして勝利へ向かう第4楽章の執拗なまでの反復と、なかなか終結しないフィナーレに嫌気がさした。まるで他人のことを全く信用しておらず、自らに賛成するまで説得を続けるような音楽の自己中心的な性格にどうしても馴染めなかった。それに対して、交響曲第7番は初めから好きな作品だった。全曲を通して反復が多いが、そのリズムの軽快さからむしろ楽しめていた。ただし、今から振り返ると、交響曲第5番の終楽章と第7番の終楽章の基本的な性質は同じで、ひたすらしつこい確認と反復が行われているのではないかと思う。

 そして交響曲第9番。「歓喜の歌」などと言われるが、「共感できないものは去れ」という強烈なメッセージを包含している。皆で一緒に歓喜を歌おうと言いながら、共感できないものを排斥する息苦しさ。他者に自らの考えを押し付け、首を縦に振るまでしつこく説得を繰り返す第5番と本質的には変わっていないのではないかと、初めて歌詞を見たときは思ったものだ。まるで説教をされているような心地がして、ベートーヴェンもしばらく聴きたくないと思ったことすらある。ただし、交響曲第9番も初めて実演で聴いた小泉和裕指揮、九州交響楽団の実演で心底感動したのも事実なのである。なぜこれまで好きではなかった作品であのとき感動してしまったのか、なぜその後ベートーヴェンを進んで聴くようになったのかを考えると、ショスタコーヴィチと共通するものがあるように思えてならない。

初めて実演でベートーヴェン交響曲第9番を聴いたのは、小泉和裕(1949-)と九州交響楽団(2019年12月)だった。それまでの共感のなさから一転し、楽曲が展開するにしたがって抗いがたい共感性を私は感じていた。

 ネルソンスとボストン交響楽団によるショスタコーヴィチ: 交響曲第5番。あの時感じたのは、ネルソンスの音楽づくりに対する共感である。必要以上に作品の性格を強調することなく、作品に語らせる。確かに金管の鳴りが良いアメリカのオーケストラではあるが、ネルソンスは機能性を生かしたクリアな大音響を実現し、第3楽章では極限まで弱音を絞って静電気の膜のように感じる緊張感を引き出した。前半2楽章での冷徹さから第3楽章での温かみへのテクスチュアの変化。終楽章のフィナーレも渾身の打ち込みで、大衆が称賛を煽られる様を見事に表現した。気づけば私は初めて、ショスタコーヴィチという作曲家の実演で感動していた。

 小泉和裕九州交響楽団によるベートーヴェン: 交響曲第9番。こちらで感じたのも、小泉和裕の音楽づくりに対する好みである。低弦を主体として豊かに響き、特に第3楽章の歌謡性には引き込まれた。何より小泉和裕の構造を重視した解釈は説得力が大きく、楽曲が展開するにしたがって熱を帯びていった。そして気が付けば、私はこれまで好きだと思えなかったこの作品の世界に浸っていた。

 ショスタコーヴィチベートーヴェン。両者の作品には確かに押しつけがましい同調圧力を孕んでいるのだが、ひとたび共感をしてしまうと抜けられなくなるような中毒性をも秘めているように思う。何か不満を持った際に、同じことに猛烈に怒っている主張を目にすると、皆同じように不満をもって怒りを爆発させているのだと錯覚してしまうように、また、何か自分が良いと思っているものをごく近隣の人たちだけでも猛烈に賞賛していると、皆一様に素晴らしいと感じているのだろうと錯覚してしまうように、ショスタコーヴィチベートーヴェンの音楽には、その主張にそれまで懐疑的だった人をも思わず巻き込んでしまうような渦巻くエネルギーを感じてしまう。普段は覚えない共感を思わず覚えたとき、視野を狭めてしまうような作用があるのかもしれない。そして、共感を覚えてしまえば逃げ場はなく、楽曲が展開するにしたがってどんどん煽られてしまう。そういった物事の見方に対する客観性を見失ってしまうような魔力を持っているのだろうと思う。

 ただし、これらは本当に大衆を政治的な賞賛へ向かわせるものなのか。それは逆なのだと思う。むしろ、ミヒャエル・ザンデルリンク(1967-)がベートーヴェン交響曲第3番とショスタコーヴィチ交響曲第10番の共通項として挙げるように、それは「音楽自体は終始、英雄や王を褒め讃えて歌っているのだが、その賞賛がたびたび批判的な調子によって蝕まれる」ものであり、「虐げられている人々への連帯を表明し、彼らの測り知れない苦しみを表す言葉を見つける」役割を果たすというものであるのだろう。*1

 こういった感覚を持ったこれからであっても、私にはショスタコーヴィチベートーヴェンの魔力に憑りつかれる瞬間が数多く訪れるだろう。実際に生活している際は、世の中のあらゆる事象を客観性をもって判断できるように努めたいが、音楽を楽しむ場合は別に良いだろう。私は私なりに、「気づけばその世界に引き込まれるような不思議な感動体験」を今後も大事にしていきたいと思うのである。