Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

Oper, Wiener Walzer, ein bisschen Symphonie, usw.

リゲティ《アトモスフェール》から生き方を思う

 

2023年5月にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によってリゲティ《アトモスフェール》が演奏されたウィーン・コンツェルトハウス(指揮: フィリップ・ジョルダン)。

 先日、配信を通じて、ジェルジュ・リゲティ(1923-2006)の《アトモスフェール》という楽曲を聴く機会があった。今年はリゲティ生誕100周年のメモリアルイヤーであり、その100回目の誕生日にあたる5月28日に、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団がフィリップ・ジョルダンの指揮で演奏したのである。*1どこからともなく霞が広がり始め、明瞭な旋律など持たない音の重なりが膨張し、いつしか減衰して曲が閉じられる。そこには静寂があったはずなのに、いつしかざわめきのような音が多様なテクスチュアを生みながら広がり萎み、気づけば静寂に戻っている。「明確な始まりも明確な終わりも持たない」という点は、指揮者ニコラウス・アーノンクール(1929-2016)がヴォルフガング・アマデウスモーツァルト(1756-1791)の交響曲第39番・40番・41番の3曲を「交響的オラトリオ」として解釈していた*2のと正反対の事象として印象的だった。そのような、まさに「雰囲気」「気配」を印象付ける曲に、私は面白さを感じていた。明確な始まりがあり、明確な終わりがある形式的なモーツァルトの音楽に対して、開始と終結をひけらかすことなく、いつしか生まれいつしか消えていくリゲティの音楽。その対照性について考え始めると、どんどん妄想が膨らんでいくのを私は感じていた。

参考までに、《アトモスフェール》の実際の演奏を以下に示す。

 

 youtu.be

 

 

 ふと思えば、新型コロナウイルスの世界的な流行が世間的に騒がれ始めた2020年2月後半当時、その流行拡大は突然のことに思われ、世界中への拡散はまさにモーツァルト交響曲第39番の冒頭のような素早さであった。しかしながら、これはあくまで私が意識し始めた時点からの観測でしかない。大流行が始まるより前にも、新型コロナウイルスの報告や感染・死亡例などは少しずつ上がってきていたのである。そしていくらかの波を経て感染者数は増減し、現在はマスク着用規制やワクチン接種キャンペーンなどが廃止され、徐々に「コロナ前」に戻りつつある。私は、このような「コロナ禍」の挙動そのものに、リゲティの《アトモスフェール》の音楽に通じるものを感じずにはいられなかった。これはコロナ禍に特異的な事象なのだろうか。

 例えば、自然的な事象を見れば、そもそも季節自体がそのような始点と終点の明確ではないものだと考えられる。例えば、我々は気温が徐々に高くなり、庭の梅に花が咲くと、春が来たと思うかもしれない。長雨が明け、太陽が容赦なく照らしつけ始めると、もう夏本番だと思うかもしれない。しかし、気温は多少の起伏はあれど、大まかに捉えれば常に漸次的に変化しているのであり、季節に明確な境界はないようなものだ。それを我々は「立春」などと言ってカレンダーに印をつけて境界を設けつつ、気温の変化や生き物の登場、旬の食べ物など五感を使って感じ取っているのであろう。

 人間関係の発展にしても、明確な境界はないのかもしれない。例えば、ある人を好きになるとき、好きになったと意識する瞬間はあるかもしれないが、それは自分自身が「この人が好きだ」と確認した瞬間であり、それ以前からその人に心惹かれていたはずだと思う。愛情を告白し、相手に受け入れられることで恋人関係になる場合でも、その告白はあくまで両者の関係を新たなステップへと引き上げるために意識的に設けられた境界であり、恋人関係になるにはそもそも両者がそれまでにある程度親密な関係を築いているのではないかと思われる。

 社会的な事象も同様なのではないか。例えば2022年2月から続いている本格的なロシアによるウクライナ侵攻にしても、ウクライナの国境を越えて進行する前までには、クリミア半島編入ウクライナNATOとの軍事演習に伴うロシア軍のウクライナ国境への軍備拡大など、予兆ともいえるさまざまな出来事が指摘されているはずである。*3

 こうして考えていくと、我々を取り巻く環境での事象は、リゲティの《アトモスフェール》のように、静寂から霞が徐々に立つように生まれ、気づけば意識の外に放り出されていくのではないかという、ある種当たり前の考えが私の中に忽然と浮かんできた。我々は、本来明確な始点と終点のないあらゆる事象に関して、気づかないうちに「記念日」や「暦」といった境界を設定しているのだと。時間という秩序を与えることは社会を維持していく上では非常に重要だとは思うが、本来自然にしても、人間にしても、あるいはその集まりである社会にしても、ある瞬間突然0が1になるのではなく、徐々に気づかないところから生まれているのである。それを時間に縛られている我々が意識するタイミングが「記念日」や「境界」になり、ある瞬間以降に大ごととして捉えられるだけのことなのだろう。リゲティの楽曲が、そのようにあらゆる物事には実際には明確な始まりと終わりがないことを暗示しているのではないかと認識させられた。

 

 岡田暁生が著書『音楽の危機』(2020)の中で、「音楽家は先の時代を予感したかのように作品を出す場合がある」という旨のことを書いていた。例えば、『音楽の危機』の中では、イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)の《春の祭典》(1913)と翌年に始まる第1次世界大戦の繋がりについて指摘されている。《春の祭典》での既存のリズムの崩壊による「カタストロフの予告」と現実世界における第1次世界大戦での既存の体制の崩壊。ここにおいて、我々が普段聞こえていない声を聞き取って、それが作曲家に作品を書かせるのだと。それは、芸術家がそうでない人々からみると、ある意味アウトサイダーであり、「外」から「中」を客観視できるからこそなのではないかと洞察されていた。*4すなわち、芸術家は社会の変化の機微をある意味いち早く掴める人たちであり、「中」の人よりも環境変化に敏感なのだと思う。我々の周りの事象が、始めと終わりが明確ではない、膨らみを持ったものであるとしたら、こうした芸術家はその誕生にいちばん近い人の部類なのだろうと思う。だからこそ、芸術家の作品には、その時々の置かれた境遇が色濃く反映され、個性の一部になっているのだろう。

 ただし、科学技術が発展する以前の人間は、もっと周りの環境変化の機微に敏感だったのだろうとも思う。現代ではポータブルプレーヤーやイヤホンを使えば、どこでも音楽を聴ける時代になった反面、鳥の鳴き声や雨の匂いなどの五感で感じる機微に対して鈍感になってしまったのではないかと私自身を振り返っても思う。もちろん溢れかえる情報の中から取捨選択して正しい情報を得て、自らの人生を決めていきたい。しかし、問題は受け取り方だと感じている。霞がどこかしら生まれどこかしらへと還っていくような、自分の身の回りにあるさまざまな事象の機微を積極的に捉えることは、自らをより敏感にし、感じる物事への解像度が高くなることで、その後の人生に役立つ些細な発見に繋がり、自分自身を豊かにするのではないかと思う。

 

 情報が大量に溢れかえっている世界で、我々はどう生きるべきなのか。リゲティの《アトモスフェール》から、私は人生に対する教訓を得たように思う。否応なしに膨大な量の情報を浴び続け、情報に対して受動的になりすぎている現在、芸術家の感性の鋭さと気配の変化への敏感さには、参考になることも多いだろう。私もまた、膨大な量の情報を受動的な姿勢で受け止めるのではなく、連続的に生まれ、幾重もの霞が重なり合いながらその質感が常に変化していく周りの世界に対して、より鋭敏になり、解像度を上げて物事を捉えられるようにしたい。そのことこそ、実り多く豊かな人生を彩るパレットになるのではないかと私は考えている。そのために、日ごろから受動的に情報に浸るのではなく、常に自らの周りの情報に対して能動的な姿勢を取り、さまざまなハードルに積極的にチャレンジしながら、自らを養っていきたいと思う。