Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

Oper, Wiener Walzer, ein bisschen Symphonie, usw.

カラヤン&フィルハーモニア管によるシュトラウス《ばらの騎士》(1956年)

 初めて《ばらの騎士》というオペラを聴いたときからずっと、「元帥夫人マルシャリン=リーザ・デラ・カーザ」という図式を頭に浮かべながら聴いてしまう節があり、エリーザベト・シュヴァルツコップというソプラノをあまり好まない傾向があった。*1そのため、ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908-1989)がフィルハーモニア管と録音したこのCD*2も、同じくカラヤンウィーンフィルを振ったルドルフ・ハルトマン演出の映像作品*3もあまり鑑賞せずにいた。しかし、あまりにシュヴァルツコップを聴かないでいると、「なぜ往年のマルシャリンとしてシュヴァルツコップが評価されているのか」という永遠の疑問が解決しないので、こうして今日はフィルハーモニア管との録音を取り出して聴いている。ちなみにウィーンフィルとの映像作品に関しては、「なぜ他の公演はデラ・カーザなのにこの日だけシュヴァルツコップだったのか」*4という疑問が頭を悩ませていた本オペラの聴き始めの頃、デラ・カーザ好きにはたまらない記事を見つけてしまい、それ以来観ることができなくなってしまったことも告白しておきたい。*5

 

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ザルツブルクカラヤン生家の庭に立つ銅像*6

 さて、カラヤン指揮、フィルハーモニア管による《ばらの騎士》だが、壮年期のカラヤンの颯爽とした指揮ぶりを堪能できるのがまず魅力的である。1950年代から1960年代のカラヤンに見られる推進力のある音楽は、オペラのストーリーを非常に効果的に展開している。カラヤンは1982年から3年かけてウィーンフィルと《ばらの騎士》を録音しているが*7、円熟したカラヤンから滴るように繰り広げられる、最晩年のブルックナーの録音を思い起こさせるような黄金の響きによる巨大な音楽と今回聴いている1956年の録音の引き締まった音楽は好対照である。ただし、カラヤンの最大の特徴のひとつともいえる光沢感のあるレガートは、どの場面においても生かされており、「オックスのワルツ」に特筆される官能ときらびやかさ、そして第1幕モノローグに特筆されるほろ苦さの両面を際立たせているのは、この2つの録音の注目すべき共通点である。

 カラヤンは第1幕のマルシャリンのモノローグからオクタヴィアンとの二重唱、フィナーレに至るまでの音楽、あるいは第3幕の恍惚とするような三重唱からフィナーレにかけて、テンポを一気に落として聴かせている。それに対して、例えば第1幕前奏曲や第2幕の冒頭などはテンポを速く設定している。このようにカラヤンは、歌手とオーケストラの一致した劇的な興奮から、聴き手を一気にその物語の中に引きずり込むような音楽づくりをしている。また、シュトラウスが楽譜に散りばめた人物を表すモチーフや調性による情景描写などを余すところなく拾いつつ、そこを落とさないように一体となったサウンドで歌わせるようなカラヤンの解釈は、安心感のある立体構造を確実に保ちながら、響きが美しいだけでなく音楽とストーリーを結び付ける役割を果たしている。《ばらの騎士》に限らず、カラヤンはとりわけ登場人物の心情とオーケストラの表現を効果的に結びつけることに長けていると私は思う。

 さて、シュヴァルツコップの元帥夫人マルシャリンであるが、まず個人的な好みの問題からすると好みからは外れる。やはり初期のデラ・カーザの刷り込みからか、デラ・カーザのような白銀の気品に入れ込んでしまうと、シュヴァルツコップのマルシャリンには初めは少し違和感すらあった。シュヴァルツコップの特徴として、クリーミーな声を持っているという点がある。シュヴァルツコップはそのクリーミーに広がる均質な声を生かして、言葉の隅々まで徹底してニュアンスを与え尽くしており、その点圧倒的だと言える。まるで投網をかけるような情報量の多さからは、彼女自身がいかにこの元帥夫人マルシャリンを愛し、研究し、自分のレパートリーの中でも特に重要視したかというのが伺え、聴いていて驚かされるものであることは間違いない。今まで聴いてきたどんなマルシャリンよりも多い情報量とそれらを与えられるだけの能力の高さ。その反面、作りこみすぎているように聴こえなくもない。確かに言葉の端々にまでニュアンスを与える歌唱には脱帽だが、徹底した性格付けと少し大きめのビブラートがマルシャリンを30代前半という設定よりもいくぶん厚化粧に聴かせてしまうように私には感じられた。デラ・カーザの滲み出る気品と控えめな歌い口の内省的なマルシャリンとは、その点対照的かもしれない。

 とはいえ、シュヴァルツコップが圧倒的であるのは、第1幕のモノローグを聴いてもよくわかり、一般に「マルシャリン=シュヴァルツコップ」というイメージがあるのも頷けるところではある。徹底された細かな性格付けはもちろん、マルシャリンの持つメランコリックな面をオーケストラの翳りとともに与えていき、沈んでいく様は聴き応えがある。また、カラヤンの作りこんだ音楽の中で「シュヴァルツコップのマルシャリン」を演じることで、唯一無二のマルシャリンとしての存在感を確立しているという点で、シュヴァルツコップの人工的な歌唱は意義深いものと言えるかもしれない。

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エリーザベト・シュヴァルツコップ(1915-2006)は、往年の名マルシャリンとして世界中にその名が知られている。*8

 オクタヴィアン役には往年のメゾソプラノ、クリスタ・ルートヴィヒ。ルートヴィヒは先に紹介したバーンスタイン指揮、ウィーンフィルの録音*9などでは元帥夫人マルシャリンを歌っていたが、オクタヴィアン役でも活躍していた。ルートヴィヒの声は柔らかさが特徴的であるため、初めはマルシャリンの方がその特質をうまく生かせるのではないかと考えていたが、聴いてみるとオクタヴィアンもかなり素晴らしい。オクタヴィアンは設定上17歳の青年貴族であるが、その若々しさや情熱といったものが、明るく照らされた声により初々しく表現されるのはとりわけ魅力的だ。第2幕でのゾフィーとの若さ溢れるやりとりでは、ルートヴィヒの明朗な歌唱がとりわけ生きている。また場面に応じて発声の強さ、瞬発性を変えているように感じられ、第2幕でのオックス男爵とのやりとりなどではほとばしるような凛々しさを感じるのである。また、実直な騎士としての像はもちろん魅力的だが、田舎娘の召使マリアンネに扮しているときのコミカルな性格付けも魅力的であり、中性的なオクタヴィアンを演じ切っている。

 オックス男爵を演じるのが古き良きウィーンを体現する名バスバリトン、オットー・エーデルマンである。エーデルマンの魅力は何と言ってもやはり、その喜歌劇的な自由度の高い歌い回しだろう。楽譜から浮かせるように歌われる訛りの激しいオックス男爵には田舎臭さが存分に感じられるが、同時に滲むような品も感じられて、田舎貴族であるオックス男爵を表現できているのが素晴らしい。歌い回しの自由さはこのオペラの喜歌劇的性格を余すところなく伝えているが、場面がシリアスになる第3幕のマルシャリン登場以降は、エーデルマンの歌唱にも折り目正しさが加わるのは面白い。また、楽天的なオックスの性格はエーデルマンの自由度の高さによって際立ち、個性的ながら説得力のあるオックス男爵像をエーデルマンが見事に作り上げている点が、個人的にこの録音でいちばん堪能できたポイントとなった。

 ファニナル令嬢ゾフィーを歌うのはテレサ・シュティッヒ=ランダルである。繊細なゾフィーという印象を初めて聴いたときは持った。真っ直ぐに伸びる声は伸びやかさに無理がなく、硬質ながら押しつけがましさを感じない。しっとりとした気品を感じられ、いかにも令嬢というイメージが似つかわしい。ルートヴィヒの明るさや柔らかいが芯のある歌唱に比べると線が細いため、二重唱などで聴くと一層華奢で少し頼りないゾフィーの印象を受けるが、オックス男爵を拒絶する意思などは第2幕終盤で存分に感じられ、人物の感情の起伏をうまくとらえた歌唱だと思う。ただ、しっとりと上品すぎるよりは、期待に胸を膨らませたり、婚約者に対して落ち込んだりといった「夢見る少女」の面をもっと出す方が良いのかもしれない。例えばウィーンの名花ヒルデ・ギューデンのゾフィーが良いのは、彼女がオペレッタにも通じるような軽やかさと彼女に独特な上向きの弾むような歌い回しがうまく作用しているからだと思うのである。

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オクタヴィアンを演じるクリスタ・ルートヴィヒ(1928-2021、右)。1961年のザルツブルク音楽祭での《ばらの騎士》公演から。ゾフィーを演じているのは、前年カラヤン指揮での映像作品にも出演したアンネリーゼ・ローテンベルガー(1926-2010)。*10

 迫真の演技を歌唱からでも感じ取らせてくれるのが、ウィーンの名バリトン、エーベルハルト・ヴェヒターのファニナルである。ヴェヒターと言えば《こうもり》のアイゼンシュタイン役などオペレッタの諸役で有名な歌手だが、その性格付けをファニナルという役でもまた生かし切っているのが非常に素晴らしい。特筆されるのが第2幕で騒動に関してオックスに謝るときや第3幕で登場してからの狼狽などだろう。さらに、パウル・クーエンのヴァルツァッキやケースティン・マイヤーのアンニーナも好演しており、性格付けが難しい役ながら、説得力のある役作りとなっている。また、第1幕ではイタリア人歌手役に起用されたニコライ・ゲッダが伸び伸びと歌声を聴かせている。

 ただ、カラヤンの真骨頂はやはり第3幕フィナーレの構築力にあると思う。第3幕フィナーレの三重唱は以前も書いたように元帥夫人マルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーという3つの女声の声楽パートをも含んだ巨大な「交響詩」的な音楽だが、カラヤンは分厚い響きとレガートを生かし、一体感のある極上の音楽を作り上げている。複雑な三重唱の中でも醸し出すマルシャリンの寂寥感に、シュヴァルツコップの能力の高さが伺える。オーケストラパートが自ら支える声楽パートと情感を共有しているという点では、カラヤンの解釈は一貫している。フィルハーモニア管の弦にいくぶん見られる濃厚さはカラヤンの恍惚とするような音楽づくりに大きく寄与しているが、個性的な木管がまた、この三重唱でそれぞれの特質を発揮しているのも聴き逃せない。

 結局のところ、シュヴァルツコップのマルシャリンが往年のものだと言われるのは、シュヴァルツコップがこの役を深く愛し、深く追究し、言葉のひとつひとつ、その隅々に至るまで徹底的に緻密な表現を求めて、自らの能力で体現することによって、シュヴァルツコップにしかできない表現でマルシャリンを突き詰めたところにあると思う。舞台映像を観たらまた考え方も変わるのだろうから、近いうちに再び映像作品を観てみる必要があると私は感じている。

 

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*1:理想のマルシャリン~リーザ・デラ・カーザ - Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

*2:『ばらの騎士』全曲 ヘルベルト・フォン・カラヤン&フィルハーモニア管、シュヴァルツコップ、ルートヴィヒ、他(1956 ステレオ)(3SACD)(シングルレイヤー) : シュトラウス、リヒャルト(1864-1949) | HMV&BOOKS online - WPGS-10034/6

*3:『ばらの騎士』全曲 ハルトマン演出、カラヤン&ウィーン・フィル、シュヴァルツコップ、ユリナッチ、他(1960) : シュトラウス、リヒャルト(1864-1949) | HMV&BOOKS online - BD4684

*4:『ばらの騎士』全曲 ハルトマン演出、カラヤン&ウィーン・フィル、シュヴァルツコップ、ユリナッチ、他(1960) : シュトラウス、リヒャルト(1864-1949) | HMV&BOOKS online - BD4684

*5:Lisa Della Casa

*6:Herbert von Karajan in Salzburg | Denkmal von Herbert von Ka… | Flickr

*7:楽劇『ばらの騎士』全曲 カラヤン&ウィーン・フィル、トモワ=シントウ、バルツァ、ほか(3CD) : シュトラウス、リヒャルト(1864-1949) | HMV&BOOKS online - POCG-3698/700

*8:Elisabeth Schwarzkopf - Télécharger et écouter les albums.

*9:バーンスタイン&ウィーンフィルによるシュトラウス《ばらの騎士》(1971年) - Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

*10:Mourning the Death of Christa Ludwig • Salzburger Festspiele