Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

Oper, Wiener Walzer, ein bisschen Symphonie, usw.

バーンスタイン&ウィーンフィルによるシュトラウス《ばらの騎士》(1971年)

 今日は指揮者・作曲家のレナード・バーンスタイン(1918年8月25日-1990年10月14日)の誕生日である。これを機に久々にバーンスタインの《ばらの騎士》を取り出してみた。初めて聴いたときには、あまりに濃厚で聴き通すのすら苦労したのだが、今もう一度聴いてみると新たな発見もあって、また一味違った印象を受ける。

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レナード・バーンスタインウィーン国立歌劇場、1970年)。*1

 バーンスタインのこってりと滴るような濃厚な響きは、このオペラの官能と恍惚を全面に押し出すような印象を与える。個性的なウィーンフィルというオーケストラの持つ金色の響きと、バーンスタインの密度の高さと重心の低さがもたらす、さながら異世界の物語を体験しているような音楽には驚かされる。バーンスタインの音楽づくりはゆっくりとしたテンポで、朝食のシーンや第1幕終盤など、時に止まってしまうかと思われるような場面もある。しかし、第2幕でヴァルツァッキとアンニーナがオクタヴィアンとゾフィーを取り押さえる場面に特筆されるように、場面の切り替わりでは強弱の起伏を激しくとるなど、ゆっくりと進む物語に対して引き締める効果をもたらしているのは面白い。各場面で濃密な音楽を作りつつ、それぞれの場面の移り変わりがはっきりしているので音楽が一本調子にはならず、聴いている人を次の場面へと誘う。特に第1幕のしっとりと聴かせたフィナーレのヴァイオリンソロから瑞々しい木管が特筆される力強さと豪華さに満ちた第2幕冒頭、「銀のばらの献呈」への転換は圧巻である。

 また、バーンスタインの、場合によっては多少大げさにも感じる性格付けも注目すべき点である。例えば、オックス男爵の足音を思わせる低弦のピツィカートなどを強調して、オックス男爵の体型だけでなく、性格における強引さを表現したり、特に重唱でライトモティーフのソロを際立たせることで、歌詞の意味するところを明確にしたりするなど、随所に工夫が見られる。また、強弱のレンジが広いために感じる、音楽のスケールの大きさもバーンスタインならではと言えるだろう。

 そんな中でも「オックス男爵のワルツ」に特筆されるようなワルツの弾みはウィーンフィルならでは。そこに旋律を大事にするバーンスタインの濃厚なレガートがかかっても、決してロマンティックというだけの音楽には終わらず、弾みを伴った洒脱さが感じられるのである。第1幕の朝食のシーンでも、確かに夢見心地な様子が表現されたゆっくりな展開ではあるものの、ワルツの弾みによって想像よりももたれることなく進行していく印象を持った。ウィンナ・ワルツのような伝統的な部分を、それが身に染み付いているオーケストラに多少任せ、尊重しながら、バーンスタインの個性を浸透させたシュトラウスの音楽を私たちはそこに体感できるのである。ウィーン国立歌劇場においては1968年に現行のオットー・シェンクの演出の初演も任されたバーンスタインウィーン国立歌劇場での公演においては、第3幕前奏曲を「指揮」せず、目くばせだけで指示を出したという話もある。*2ウィーンの伝統の尊重とバーンスタインの斬新さが互いに良い効果をもたらした音楽だと私は思う。

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クリスタ・ルートヴィヒ(元帥夫人マルシャリン、左)とギネス・ジョーンズ(オクタヴィアン)。ウィーン国立歌劇場での1968年のオットー・シェンク演出の初演時。*3

 歌手陣の中ではやはり往年の元帥夫人マルシャリンのひとり、クリスタ・ルートヴィヒが圧巻の歌唱を聴かせてくれる。ルートヴィヒのマルシャリンと言えば、カール・ベーム指揮、ウィーンフィルでの1969年のザルツブルク音楽祭ライブの録音*4も出ているが、このバーンスタイン盤でも持ち味の柔和で奥行きのある声がマルシャリンの気品を十二分に湛えている。1956年のカラヤン指揮、フィルハーモニア管の録音*5ではオクタヴィアン役を歌ったルートヴィヒにはメゾソプラノのオクタヴィアン役が染み付いているため、マルシャリンとオクタヴィアンとの感情の交錯はやはり聴きものである。とりわけ第1幕フィナーレへ向かうモノローグからオクタヴィアンとの二重唱に至る場面は、バーンスタインの音楽が醸成する翳りの上に、オクタヴィアンとの心のずれを絶妙に表現している。また、第3幕での、オックス男爵に対しての「騎士としての体面を保って去りなさい」と諭したり、ゾフィーへの柔和な表情を見せたりする場面は特に、ルートヴィヒの気品ある歌唱により説得力の増すものとなっているように感じられる。

 オクタヴィアンを歌っているソプラノ、ギネス・ジョーンズもまた、後年のカルロス・クライバー指揮、バイエルン国立歌劇場の映像*6で元帥夫人マルシャリンを歌っている名マルシャリンである。ジョーンズは1968年のシェンク演出の初演時から1971年に至るまで、ウィーンで10回オクタヴィアンを歌っているが、その後1973年にウィーン国立歌劇場でマルシャリン・デビュー、1995年に至るまで実に32回もマルシャリンを歌っているのである(合計42回すべてがシェンク演出であるのも興味深い)*7。ただ、バーンスタインの録音におけるオクタヴィアンもジョーンズの才能を感じさせる素晴らしいものである。幅広いレパートリーを持つジョーンズの余裕のある発声と低音から高音に至るまでレンジの広い歌唱は、役柄への無理のない性格付けを可能にしている。オクタヴィアンには騎士と扮装時の召使の田舎娘マリアンネの演じ分け、さらに騎士としてもマルシャリン、ゾフィー、オックス男爵…といった登場人物に対応する際の歌い分けが必要であるが、これが実に鮮やかで説得力があるのである。情感豊かではあるが決して野暮ったくならない第1幕終盤でのマルシャリンとの二重唱、瑞々しく初々しいゾフィーとの感情の交換、オックス男爵に対する挑戦的な態度、第3幕での召使マリアンネとしての演技力と策略を遂行する理知的な側面…。全てが魅力的なオクタヴィアンである。

 オックス男爵を歌っているのは、ウィーンの名バリトン、ヴァルター・ベリーである。ウィーン出身だけあって訛りが激しいオックス男爵としても歌い回しが滑らかで、角の取れた自然さは特筆される。ひょっとすると陥りやすい、オックス男爵の濃すぎる味付けにも決して陥らず、「粗野だが下品になりすぎない」オックス男爵を見事に描いているのが魅力的だ。マルシャリンに対しては粗野な部分も比較的控えめに、ファニナルに対してはある程度強引さが見られるなど、歌唱からでも人物によって対応の仕方を絶妙に変えているのが分かるのもまた素晴らしい。また、機嫌が悪くなることはあっても、基本的に楽天的なオックス男爵の性格は、明るく照らされるようなベリーの声とも非常によく合っている。

 ゾフィーを歌っているルチア・ポップほどゾフィーという役が似つかわしい歌手もなかなかいないだろう。1966年に初めてウィーン国立歌劇場ゾフィーを歌い、以降ウィーンだけでも23回ゾフィーを歌っている*8。それだけでなく、カルロス・クライバーに重用され、バイエルン国立歌劇場でもたびたびその初々しいゾフィーを披露した。言うまでもなくポップのゾフィーの艶やかな声は唯一無二のものである。シュトラウスゾフィーに与えたG-Dur(第2幕冒頭の調性)の婚礼を夢見る少女の性格付けは、特に上向きの歌い回しに感じられる。「銀のばらの献呈」での無理のない伸びやかな高音は、その歌声ととも天に昇るような錯覚をするほど素晴らしいものである。オックス男爵の登場前の希望、オックス男爵への失望、そして第3幕フィナーレでの希望。ポップはゾフィーという感情の変化の大きな役を、ヒルデ・ギューデンら他の名ゾフィーと共通する上向きの歌い回しを絡めながら、官能的な美声をもって見事に演じ切っている。

 他にもエルンスト・グートシュタインによる堅実なファニナルも聴きものである。堅実ながら自在な感情表現は、後の名ファニナル、ゴットフリート・ホーニクらにも共通する魅力である。マレイ・ディッキーのヴァルツァッキも好演だが、脇役の中でもひときわ魅力的なのはマルガリータ・リローヴァのアンニーナである。リローヴァは膨大なレパートリーを誇ったウィーンの名脇役だが、とりわけ彼女の安定感のある歌唱ときめ細やかな性格付けにはこのアンニーナの役でも驚嘆させられる。イタリア人歌手役に抜擢されたスター歌手、プラシド・ドミンゴは立派な歌唱だが、なぜかこの役には違和感があった。ショルティ盤で起用されたルチアーノ・パヴァロッティと同様、シュトラウスの音楽の中にある「ウィーンのイタリア人」という役にはなぜかしっくりこないものが、個人的に歌唱から感じられた。ただ、貴族の邸宅によばれて歌声を披露するという意味では、こうした大物歌手の演じるイタリア人テノール役もまた面白いものである。

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バーンスタイン指揮、ウィーン国立歌劇場での《ばらの騎士》(1968年)。オットー・シェンク演出の初演時は、後年の録音と同じくギネス・ジョーンズ(左)がオクタヴィアンを演じたが、ゾフィーはレリ・グリストだった。*9

 このオペラの極致ともいえる、第3幕フィナーレの三重唱の巨大な「交響詩」の様相もまた見事である。バーンスタインウィーンフィル、そして各歌手の良さが生きた恍惚とするような響きはこの録音と白眉としてあげられるものだろう。オペラの中でこれまで出てきた様々な要素が統合された複雑な三重唱の中で、とりわけルートヴィヒ、ジョーンズ、ポップという3人の異なる性質の歌声が互いに重なり合い、個性的なウィーンフィルの音色としなやかに築き上げるクライマックスには、一体となって塊として聴かせる面だけでなく、いくぶん強めの金管が全体の流れを引っ張りはしても、各パートが埋没せずに特徴を維持し、それぞれの存在感を確立しているという面もまた感じられる不思議さがある。

 通常のカットなしよりも長い3時間33分のじっくり聴かせた物語も、なぜかそれほど長く感じないくらいの魅力が、この第3幕フィナーレを聴いたときに私の中に感じられた。いや、もしかすると、じっくり聴かせたからこそこのフィナーレはより感動的なものとして聴こえたのかもしれない。

 

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