新型コロナウイルスの感染拡大はひと段落したかと思えば、どうやら各所で第2波がやってきたように思える。大学もオンライン講義が続いており、部活もできそうにない。コンサートもこれまでに17公演が中止や延期で消え、これから先もどうなるかわからない。これではますますストリーミング漬けの生活に拍車がかかるだけである。学校の勉強もしなくてはいけない。論文を読み、レポートを書き、勉強もしていかなくてはならない。ますます計画を立てることの大事さを痛感させられるのである。
さて、先日からカミッラ=ニールンドというソプラノに魅了され続けている。最初はベルリンフィルのデジタルコンサートホールで聴いたノセダ指揮のR. シュトラウスの《4つの最後の歌》から始まった。たまたまチャイコフスキー4番が聴きたくなって聴いたコンサートの前プロだっただけ…のつもりだった。そもそも《ばらの騎士》をフルスコアで購入してしまうぐらいに好きになっていたはずだが、R. シュトラウスという作曲家には疎いのである。つい昨年までR. シュトラウスはほとんど聴いていなかったし、思い立ったように《ばらの騎士》を聴き始めたのもウィーン遠征のためだったのである。しかし、帰国してどんどんはまっていった。とはいえ、まだまだ交響詩にすらろくに手を出せていないし、オペラについてもまだまだなのである。
そういう段階で、先日ベルリンフィルで初めて《4つの最後の歌》を聴いた。《カプリッチョ》を思わせる美しい音楽にうっとりするとともに、ニールンドの柔らかくも奥行きのある、気品に満ちた声には感動させられた。しかし、そこでニールンドという歌手に注目し始めたわけではなく、ウィーン国立歌劇場のストリーミングがあったからこそ、ニールンドを何度も聴くことができ、このソプラノの素晴らしさを体感させられた。
彼女のマルシャリン(ばらの騎士)はいまだに聴けていないので明言は控えたいが、彼女はシュトラウス・プリマとしては現代随一のソプラノではないだろうか…。とりわけ感動したのが《カプリッチョ》のマドレーヌ役だった。フランス貴族らしさを前面に押し出すのではなく、控えめではあるけれど存在感を出す、彼女の歌いまわしは聴いていて実に心地よいものだった。声質は勿論違うけれど、まるでリサ=デラ=カーザのシュトラウスを聴いているような気分にさせられた。言うまでもなく、デラ=カーザは私にとっての理想のマルシャリン(ばらの騎士)であり、アラベラである。ニールンドのシュトラウス・プリマには確かにデラ=カーザのそれに見られるような玉を転がすような銀色の声*2は聴かれない。しかし、奥から滑らかでしっとりとした品格のある声を充てられるニールンドのプリマには、デラ=カーザのそれと同様の若々しい高貴さが聴かれる。それは例えばマドレーヌ(カプリッチョ)やアラベラで、納得のいく役作りを見せてくれる要因となっているのだろう。
ニールンドの強みは、それに加えて声量が十分すぎるくらいあるところだろう。例えば皇后(影のない女)で要求される、若々しさとドラマティックさを両立できるのは、ニールンドの強みと言ってもよいだろう。今もティーレマン指揮で、ウィーン国立歌劇場の《影のない女》のストリーミングを見ているところだが、彼女の皇后役はその奥の深さと自由自在に変えられる線の細さもあって、本当に素晴らしい。
そういうわけで、ニールンドはシュトラウス・プリマに関しては向かうところ敵なしのように感じてしまう。アラベラ、マドレーヌ(カプリッチョ)、皇后(影のない女)…のいずれにしても、その役柄が似合いすぎているのである。ぜひ生の舞台を見てみたいソプラノのひとりである。
いまだに夜型を改善できずにはいるが、今日こそ早く寝て、明日から早起きして、規則正しく生活していけたらと思う。そうでもしないと、勉強と趣味のバランスが取れなくなってしまいそうである(もう取れていないという説もある)。今日はだいぶ起きるのが遅くなってしまったので、明日からは改善していかなくてはいけない。今日はこれにて失礼したいと思う。