Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

Oper, Wiener Walzer, ein bisschen Symphonie, usw.

Die Zeit, die ist ein sonderbar' Ding

 

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アドリアンヌ=ピエチョンカ(マルシャリン)。ウィーン国立歌劇場での《ばらの騎士》(2019年3月、ウィーン国立歌劇場1000回目の公演)。*1

 最近、マルシャリン(ばらの騎士)への感情移入が激しい。10日ほど前、私は近くのカツ丼専門店で食事をした。この店には特盛(カツ2倍)などもあり、私もコロナ禍前まではときどき特盛を食べていた。でも、このコロナ禍で部活の練習もなくなり、今では絶対に特盛など食べられる気はしない。私も歳をとったのかななどと考えていたら、いつの間にかマルシャリンの時の観念が私の心を襲ってきて、マルシャリンの言葉通り、「突然時以外を考えられなくなる」という状態になった。

 今まで当たり前のように学校へ行き、授業を受け、泳ぎ、コンサートに行っていたのが、このコロナ禍ではすべてできなくなった。これを実感して、私は当たり前のように続いている日常がいかに貴重なものだったかを知ることになった。それと同時に、私の生き方にもマルシャリンの言葉が覆いかぶさることになる。

 カツ丼という些細なものから、正直ここまで考えさせられるとは思っていなかった。私はこれまでどのように暮らしてきたのだろう…。後から振り返ってみたときに、本当に後悔しない生き方ができているのだろうか…と考えると、首を縦に振る自信は勿論ない。大学に入って、勉強も、部活も、趣味も、そしてバイトも、本当に今まで中途半端な状態だと今更ながら感じる。こうして中途半端なまま時を過ごし、大学を離れ、将来もそのように過ごし、老後もむなしく迎えてしまうのではないのだろうか…。この何事に対しても半端な生活スタイルを継続し、寂しくひとりで死ぬのは正直怖い。最近はそんな恐怖の中に、ことあるごとに襲われている。

 自分の時間を大事にすること、それが私には意外とできていなかったのではないか…。確かに同世代の、例えば学科や部活の同期に比べれば、趣味はやや濃いのかもしれないが、こうしてTwitterなどで趣味を同じくする人びとと触れ合うと、いかに自分が中途半端なのかというのもたまに心の中に浮かんできて、いやいや所詮趣味に過ぎないし、ペースも個人個人で違うのだから…と打ち消している。また、部活の同期はもっと水泳に対して真摯に取り組んでいるし、学科の同期も勉強に対してもっと熱意がある人も多い。人と比べるのもどうなのかとは思うが、それでも自分はもっと密度の高い生活をすべきなのではないかと思わずにはいられない。

 私自身も勿論、時の流れにいる。時の流れに身をまかせ、だらだらと過ごすこともできる。それも楽しいのかもしれない。でも、このまま何も実りのない生活を続けることに対しては不安しかない。例えば、来年度の研究室配属や院試の勉強も、どうせならきちんと取り組み、大学に来た意味を見出したい。趣味も感覚だけで聴くのも楽しいけれど、せっかくならもっと深めたいと思って《ばらの騎士》のオンライン講義をご厚意から受け始めている。

 また、将来に対する不安も大きい。それは勿論、就職に関してもそうだし、本当に頭に思い描いているような未来を迎えられるか、アラベラの言うところのdie "Richtige" がどんな形であれ現れるのかどうか…などの不安もある。これまでに対する後悔もないわけではなく、部活ももう少し取り組めばタイムも伸びたのかもしれないとか、人間関係ももう少しうまくやれたかもしれないと思うことも(クラシック音楽関係も含め)あった。無駄な時間を過ごしたときもあったし、嫌なことを引きずって体調を崩した時期もあった。こういうことはこれから極力減らしていきたいところでもある。

 「自分の本当にやりたいこと」「今だからこそできること」は本当に大事にしたい。例えば昨年ウィーンに一念発起して行ったのは正解だと今はものすごく思う。後から振り返ってもこのウィーン遠征は後悔のない時間の過ごし方だと確信している。できる限り有意義に時間を使う、この当たり前のようなことをマルシャリンには教えてもらった気がする。これから予定を立てながら、例えば大学のうちに何ができるのか、あるいは大学を離れた後にどのような将来を送るのかなど考えながら、計画的に勉強も趣味もバイトも部活も、その他やりたいことも含め、やれるだけやって、充実した時間を過ごしていきたい。そして後から振り返ったときに後悔のないようにしたい。

 さまざまな機会につけてマルシャリンのモノローグを思い出すたびに、いろいろな不安がつきまとう。意図的に、例えば《ばらの騎士》を聴くときなどは別にそこまで深く考え込むことはない(すぐに第2幕で吹き飛ばされる)。でも、先日はバイト先でふとしたことから思い出してしまった。こういうときは本当に、マルシャリンの言うように時以外のことを考えられなくなる。

 今が楽しければいいという考え方ももちろんあるし、それを否定することはしないし、したくない。その人にとってはそれも正解なのだと思う。でも、私の場合はマルシャリンの言葉で、今後の生き方が明らかに変わる気がする。一度マルシャリンのようにじっくり時の流れを感じてみるのもいいのかもしれない。

 いまだに不安要素が大きな割合を占めている。あまり問題の解決にはなっていないかもしれない。でも、今後の生き方の大きな指針をマルシャリンにもらったと感じている。

 

 ただ、いちばんよく分かったのは、意外と自分は感傷的な人間のようだということである…。もちろん今も、《ばらの騎士》第1幕の幕切れ、ヴァイオリンのソロがボスコフスキーの音で響いている。