Eine wienerische Maskerad' - und weiter nichts?

Oper, Wiener Walzer, ein bisschen Symphonie, usw.

オペラの聴き始めについて

 

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ヴェルディ:歌劇《仮面舞踏会》(ウィーン国立歌劇場、ジャンフランコ・デ・ボシオ演出)*1

 思えばオペラを本格的に聴き始めてから3年が経つ。初めはヴェルディの《仮面舞踏会》から入り、プラシド・ドミンゴを中心に聴くにつれてヴェルディの《トロヴァトーレ》《椿姫》《オテロ》、ジョルダーノの《アンドレア=シェニエ》、プッチーニの《トスカ》…とイタリア・オペラにハマっていったのが私の聴き始めだった。ドミンゴというテノールを聴き始めたのもたまたま私が知っていたオペラ歌手が彼だっただけで、別にそれ以外の理由もなかった。しかし、彼の出演している作品を聴くにつれて、ドミンゴの魅力にどんどん深入りしてしまったのは言うまでもない。実際に私はウィーン国立歌劇場ドミンゴが歌うシモン=ボッカネグラを聴きに遠征するほど、ドミンゴが好きなのである。

 しかしながら、最近3週間はほぼイタリア・オペラから離れ、R. シュトラウスばかり聴いている気がする。《ばらの騎士》をウィーン国立歌劇場で観てからというもの、シュトラウスのオペラの魅力に触れる機会も増えた。とはいえ、こうして聴くオペラのレパートリーを拡大させていくのは楽しいことながら、簡単なことではなかった。シュトラウスのオペラに触れるようになって、それは痛感させられることも多かったのである。

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ビゼー:歌劇《カルメン》(ウィーン国立歌劇場フランコ・ゼッフィレッリ演出)*2

 というのは、かつて私はイタリア・オペラのレパートリー拡張の際、まずはWikipediaなどでストーリーの把握、次に対訳サイトを見ながら音楽を聴くということをしていたからである。対訳サイトを目で追いながら歌手の歌を聴き、その音楽がどの場面の音楽なのかに集中することで、次聴くときからは対訳を追わなくても、比較的楽しめるようになった。私は初めて触れる作品に対し、できるだけ映像を見ないようにしていた。映像を見ること自体は悪いとは思っていなかったが、実際に舞台を見てみると、最近の演出には挑戦的なものも多いことがわかる。そうした挑戦的な演出が、もし自分がその作品を初めて観るときに当たってきたら…。まず驚くだろうし、場合によってはその作品を忌避してしまうかもしれない。人と知り合ったときに第1印象のインパクトが強いのと同じで、オペラ作品に初めて触れたときも、最初に観た舞台の演出は、その作品をイメージづけてしまうものだと私は考えている。そういうわけで、ある程度音楽に触れてから実際に映像で舞台を見て、もしそうした演出に触れてしまった場合でも、そのインパクトを和らげたいというのが、私の考え方だった。

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マスカーニ:歌劇《カヴァレリア・ルスティカーナ》(ウィーン国立歌劇場ジャン=ピエール・ポネル演出)*3

 だから、オペラの聴き始めの頃、すなわち私がドミンゴに導かれてレパートリーを増やした時期こそ、映像からその作品に入っていたが、しばらくすると私は音源のみからオペラを聴き始めるということを試みるようになった。例えば、ヴェルディなら《ナブッコ》《ルイザ・ミラー》《リゴレット》《アッティラ》《シモン・ボッカネグラ》《ドン・カルロ》、プッチーニなら《ボエーム》《トゥーランドット》、ドニゼッティなら《ランメルモールのルチア》、モーツァルトなら《フィガロの結婚》《コジ・ファン・トゥッテ》《イドメネオ》、R. シュトラウスなら《ばらの騎士》…こうした作品はすべて音源から入った。イタリア・オペラのレパートリー拡張は、比較的うまくいったと思う。特にアリアが独立しており、形として分かりやすいシェーナーカヴァティーナーカバレッタ形式のオペラは場面が容易に想像でき、後に映像を見て納得させられることも多かった。聴かせどころがわかりやすく、まずWikipediaなどで全体像をつかんで、その後対訳にかじりついて一度通して聴きさえすれば、次に聴くときからは対訳がなくても、ストーリーが頭に入っているので楽に聴けるのである。その作品に対する第1印象を大事にし、できるだけ苦手な作品を作らないようにする目的もあって、私はしばらくはこの姿勢を崩さなかった。たとえ《シモン・ボッカネグラ》のような、アリアが少なく、音楽を聴くだけではストーリーを覚えづらい作品でも、このスタイルで頑張っていたのである。

 別にこのスタイルが悪いとは言わないし、私自身、まだ聴けていないオペラの中でも、形式的にわかりやすい作品では今後も取り入れていきたいやり方である。実際、最近レパートリーになったドヴォルザークの《ルサルカ》などはこのやり方で聴き始めた。だから、「音楽から入りたい」「第1印象からくるインパクトを軽減したい」などと考える方にはおすすめできる方法でもある。ただ、このやり方だと弊害があるのも事実で、たとえ形式的にわかりやすくても、オペラでは実際の舞台と音楽の結びつきが大事で、それが全く分からないのである。それに、私の場合は外国語に対して抵抗がほぼないが、言語が苦手な方からすると、この「対訳とにらめっこ」という作業は苦行以外の何物でもないとも思うのである。

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R. シュトラウス:歌劇《影のない女》(ウィーン国立歌劇場、ヴァンサン・ユゲ演出)*4

 「まずWikipediaなどでの全体像の把握、その後対訳を追いながら」という方法がうまくいかなかったのがR. シュトラウスのオペラである。私はR. シュトラウスを聴き始めてすぐは、例えば《ばらの騎士》や《エレクトラ》などはその方法をとっていた。しかし、ある時気の迷いから《影のない女》という作品を音楽だけで聴き始めたとき、全く訳が分からなかった。何回か聴いてストーリーの把握はできたものの、完全になにも見ずに聴けるようにはならなかった。そこで私は初めて映像を見ることにした。映像を見ながらこの作品を聴いていくと、今まで全く分からなかったこの作品の魅力を知ることができた。なぜこの場面でこの音楽なのか、というのがインパクトとして残り、今では対訳なしでも十分楽しめるようになった。また、わかりやすい《ばらの騎士》でも、舞台を実際に観たことで、はるかに楽しめるようになった。今でもこの作品は深く掘り下げるのが楽しい。初めは長く感じられた3時間20分も、今では全く長くない。《アラベラ》も同様で、初めは弛緩して聴こえていた音楽も、舞台を観てから聴くと、納得できる部分が多くなった。

 こういう経緯から、私が今、オペラを聴き始める方におすすめしたいのは、聴き始めは伝統的で定評のある演出の映像を観るということである。前衛的、挑戦的な演出も多い最近の舞台だが、それを初めに観てしまうと、後々まで大きな影響を及ぼしてしまう。例えばパリ歌劇場の宇宙を舞台にした演出*5 で《ボエーム》の「自宅初演」をするよりは、ウィーン国立歌劇場での伝統的なゼッフィレッリ演出*6 で聴き始める方が良いのではないかという考えである。さらに、最近の演出は伝統的な演出を踏まえたうえでいろいろ挑戦していることも多く感じる。でも、初めて観るときに、どの演出がそういう「変なインパクトが少ない」ものかというのはわからないかもしれない。私の場合は、伝統的な傾向が比較的強い、ウィーン国立歌劇場の映像を好んで観ている。特にオットー・シェンクやフランコ・ゼッフィレッリジャン=ピエール・ポネルといった演出の舞台には比較的安心して観られるものが多いように感じる。

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R. シュトラウス:歌劇《ばらの騎士》(ウィーン国立歌劇場、オットー・シェンク演出)*7

 《ばらの騎士》に関して言えば、私が見た限りではそこまで奇抜な演出は多くないが、やはり私が最初におすすめしたいのはシェンク演出である。ウィーン国立歌劇場バイエルン国立歌劇場で長年使われてきた舞台で、ウィーン国立歌劇場では現在も使われている。*8

 

 今日はたまにこういうオペラの聴き始めについて書いた。自分自身、聴き始めの頃を思い出しながら懐かしく感じたり、これからどのようにオペラを聴いていこうかと思わせられたりするなどできてよかった。オペラを聴き始めたいと考えている方がもしいるのなら、参考にしていただければと思う。最後に、オペラの聴き始めとして、ヨハン・シュトラウスの《こうもり》などのオペレッタを使って導入するのも、比較的有効なのではないかと思う。現に私はオペレッタから聴き始め、オペラに足を踏み入れたが、オペレッタで軽妙ながら舞台に親しみを持てたことで、シリアスなオペラでも抵抗なく見ることができるようになり、面白いと感じるようになったのかもしれない。

 

 それではこの辺で。

#今聴きたい歌手50選 第12回 ~ステファニー=ハウツィール~

 明日から実習のため、今日まで夏休みを謳歌しつつ、ドイツ語の勉強会をやり、オーストリアハプスブルク帝国時代に思いを馳せていた昼下がりだった。最近は説明的文章から文学作品に移行したこともあり、独特の訳しにくさや韻の美しさなどを感じながら読んでいる。そんなハプスブルク時代の終焉期に思いを寄せていたら、《ばらの騎士》の世界へ浸りたくなった。というわけで、今日も《ばらの騎士》を聴きながら、大好きなオクタヴィアンを紹介することにしたいと思う。

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ステファニー=ハウツィール(オクタヴィアン、ばらの騎士)。ウィーン国立歌劇場(2019年3月)。*1

 ステファニー=ハウツィール(アメリカ)

 ステファニー=ハウツィールは私がウィーンで聴いたオペラ歌手の第1声であった。私がウィーンで観た《ばらの騎士》のオクタヴィアンであったのである。ウィーン1001回目の《ばらの騎士》を見ることができてよかったし、その後私がこのオペラにハマるきっかけを作ってくれたと言っても過言ではない、そんな歌手であった。

 ハウツィールは2003年にフィリップ=ジョルダン指揮で、グラーツの歌劇場で作曲家(ナクソス島のアリアドネ)を歌ってデビューした。*2 2010年からはウィーン国立歌劇場のアンサンブルメンバーとなり、主にズボン役を当たり役としてきた。そんな彼女の最大の当たり役のひとつがオクタヴィアン(ばらの騎士)であり、他に作曲家(ナクソス島のアリアドネ)、オルロフスキー侯爵(こうもり)、そしてキャリア初期ではケルビーノ(フィガロの結婚)などを歌ってきた。一方で、女性役であるドラベッラ(コジ・ファン・トゥッテ)やアデライーデ(アラベラ)などにも定評がある。*3

 ハウツィールの持ち味は、その太めの立体的な声である。この太さのある力強い声は、とりわけオクタヴィアン(ばらの騎士)などのズボン役で凛々しさを表現するのに極めて適しており、私自身ウィーン国立歌劇場で観た《ばらの騎士》の公演でもそれは存分に発揮されていた。特に第2幕でのオックスとの対決シーンではオックスに対して血気盛んに挑戦する姿が印象に残っている。この太く凛々しい声はとりわけ中音域の充実からくるものだと私は思う。充実した中音域から、それを支えとして構造的、立体的に構築される、全体の流れを大切にした歌唱は、彼女の役作りに生きている。低音域がしっかりとしていることもあって、その上に乗せていくように紡ぎ出される高音域も、地に足着いた印象を受ける。その落ち着きもまた、彼女の魅力といえると思う。

 そして演技力である。特にオクタヴィアン(ばらの騎士)のような役では、女装してマリアンデル(小間使い)に扮している際のオペレッタ的な性格と騎士としての風格とカッコよさ、さらにゾフィーとの二重唱に見られるような、繊細さや情緒性、そしてある種の安心感をも包含している必要があると私は思うが、彼女にはそれが全て備わっているようだと実演のときに気付いた。この顔の演じ分けができる、喜歌劇的な要素がハウツィールの演技や歌いまわしの端々から感じられた。例えば第3幕のフィナーレのオクタヴィアンとゾフィーの二重唱では、ゾフィーの歌声を下から支えていて、ゾフィーを立てるような歌唱のように感じた。このときのゾフィーイスラエル人のソプラノで、若々しい声が持ち味のチェン=レイスであったが、その線の細さを際立たせつつ、外側からしっかりと包み込むようなハウツィールの歌声もまた、本当に素晴らしかった。

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ステファニー=ハウツィール(オクタヴィアン、右)とチェン=レイス(ゾフィー)。ウィーン国立歌劇場での《ばらの騎士》1000回目の公演(2019年3月21日)。*4

 ハウツィールがウィーン国立歌劇場にベースを置き始めてから11シーズン目が始まる。2020/21シーズンは、年末年始にウィーン国立歌劇場に登場し、フンパーディンクの《ヘンゼルとグレーテル*5 とヨハン=シュトラウスの《こうもり》で聴衆を沸かせる。両方の公演ともに指揮は気鋭のコーネリウス=マイスターである。特に《こうもり》は注目に値すべき公演であり、若手のリリックテノールとしてウィーンで定評があり、2020/21シーズンにウィーン国立歌劇場の《エレクトラ》でエギスト役を歌う*6 イェーグ=シュナイダーのアイゼンシュタイン、ファニナル(ばらの騎士)やマゼット(ドン・ジョヴァンニ)などでコミカルさが光るクレメンス=ウンターライナーのファルケ、そして何より昨日も紹介したウィーンのコロラトゥーラ、ダニエラ=ファリーがアデーレを歌う。*7

 ハウツィールは2016年に《ノスタルジア》というアルバムを出している。私自身まだ入手できていないが、近いうちに必ず聴きたいと考えている。*8

 それではこの辺で。

#今聴きたい歌手50選 第11回 ~ヴォルフガング=バンクル~

 ようやくテストが終わり、夏休みがやってきた。とはいえ、もうすぐ実習も始まるのでつかの間の夏休みということになる。今日みたいなフリーな日は家で音楽をゆっくり聴きながら、疲れを癒していきたいところである。今日はボスコフスキー指揮のウィーンフィルニューイヤーコンサートを聴きつつ読書とドイツ語の勉強をしたい。最近では珍しくなった、生粋のウィーン人による、「飾らない粋」を体現した絶妙な解釈のウィンナ・ワルツにある種の懐かしさを感じながら聴いている。

 ウィンナ・ワルツ、あるいはウィーンフィルニューイヤーコンサートだけに限らず、オペラに関しても生粋のウィーン流と呼ばれる人は今では少なくなっている感じがする。1960年代から1980年代にかけて活躍したウィーン出身のオペラ歌手を挙げてみると、エーベルハルト=ヴェヒターやヴァルデマール=クメント、ヴァルター=ベリー、エーリッヒ=クンツなど、オペレッタで活躍した歌手の名前が続々と挙げられる。こうした歌手の歌いまわしや発音には独特なものがあり、オペレッタだけでなくドイツ語のオペラ、中でもウィーンを舞台としているオペラ、すなわち《アラベラ》や《ばらの騎士》などで聴いても素晴らしい。

 やはり国際化が進んだこともあり、最近の歌手にこうしたウィーン独特の表現をできる歌手も少なくなってきているように感じる。それでも、その表現力が魅力の歌手はいて、例えばウィーン生まれのこの歌手は、正統なウィーン流の歌い方を継承する歌手だと思っている。

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ヴォルフガング=バンクル(オックス男爵、ばらの騎士)。ウィーン国立歌劇場(2019年3月)。*1

  ヴォルフガング=バンクル(1960‐、オーストリア

 ヴォルフガング=バンクルはウィーン生まれの歌手である。ヴァルデマール=クメントの弟子であり、ウィーン国立歌劇場で1993年から長年活躍してきたベテランである。*2 ウィーン国立歌劇場では2013年にオーストリア宮廷歌手になるまでに、74のレパートリーを歌い、合計900回の舞台経験を誇っている。*3 その中にはパパゲーノ(魔笛)、レポレッロ(ドン・ジョヴァンニ)、フィガロフィガロの結婚)、オックス男爵(ばらの騎士)、ヴァルトナー伯爵(アラベラ)、医師(ヴォツェック)、ラ・ロッシュ(カプリッチョ)などの役が含まれており、中でも喜劇役は当たり役中の当たり役とされている。長年に渡るウィーンでの舞台経験から、脇役から主役に至るまで広範なレパートリーがあり、今でもウィーン国立歌劇場への登場回数は多い。*4

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筆者が実演に触れたウィーン国立歌劇場での《ばらの騎士》(2019年3月)。

左からヴォルフガング=バンクル(オックス男爵)、アドリアンヌ=ピエチョンカ(マルシャリン)、ステファニー=ハウツィール(オクタヴィアン)、チェン=レイス(ゾフィー)、アダム=フィッシャー(指揮)、マルクス=アイヒェ(ファニナル)。

 私は幸運にも、バンクルのオックス男爵をウィーン国立歌劇場で聴くことができた。もともとオックス男爵にはピーター=ローズというイギリス人バスが起用されていたが、体調不良により宮廷歌手バンクルが代役として出てくることになった。名前からしてウィーンの歌手なのだろうと予想はついていたが、彼が私の大好きなテノールのクメントの弟子であることは後から知った。

 バンクルのコミカルな歌いまわしは、往年のオックスのオットー=エーデルマンを彷彿とさせるようなものであった。エーデルマンは1960年ザルツブルク音楽祭ライブの、カラヤン指揮の《ばらの騎士》でのオックス、1958年ザルツブルク音楽祭ライブの、カイルベルト指揮の《アラベラ》のヴァルトナーで、独特のウィーン訛りと気品、コミカルでオペレッタ的な歌いまわしが魅力的だったバスである。バンクルのオックス男爵は、理想とするエーデルマンのオックス像と容易に重なる。例えば第2幕のフィナーレ(オックスのワルツ)では柔らかな母音が特徴的であったし、下から上に持ち上げるようなフレージングには懐かしさを感じた。《ばらの騎士》の中でも、オックスが舞台に上がっている部分はシリアスなことを何も考えずに音楽に身を任せられる部分だと私は考えていて、やはりそこには「オペレッタ」の感覚が生きてくるのだと思う。そのコミカルな歌いまわしと演技力がオックスの人物像を作り上げ、オックスの生き方を感じさせるのだと思う。バンクルのオックスはその点、"Mit mir, mit mir, keine Nacht dir zu lang"という歌詞に表れているように、「楽しく時を過ごす」というオックスの喜劇的な存在を体現した素晴らしいものであった。持ち前の立体感のある、太く、それでいて若々しさも感じるような声もそこにしっとりとした深みを与えていて、ウィーンに来た喜びはここにあったのだなと心の底から思わせてくれたオペラ歌手だった。この歌い方はおそらくウィーンの訛りが見についている歌手でないと難しいと思う。時折ルバートをかけて、オケのリズムに対してあえて浮かせて歌ったり、本来の音階から少しダイアローグ気味に変えて歌ったりといった名人芸を聴かせてもらった気がする。演技についても、多少オックスの下品なところを見せつつも、基本的にはオックスにも田舎貴族とは言えど、「男爵」という地位を成金貴族のファニナルや(オクタヴィアンが扮している)小間使いのマリアンデルに対して連呼するだけのことはある、貴族らしい(とはいえ田舎貴族だと分かるぐらいの)それなりの品格を備えているオックス像で非常に素敵な解釈だった。カーテンコールでは出てきた瞬間にブラボーを飛ばしてしまったのは言うまでもない(笑)。

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ヴォルフガング=バンクル(ヴァルトナー伯爵、アラベラ)。ウィーン国立歌劇場*5

 バンクルに関してはウィーン国立歌劇場のストリーミングでヴァルトナー伯爵(アラベラ)も鑑賞した。こちらもオックスと同様、ウィーンの訛りの生きた、エーデルマンに近い解釈のものだった。私自身、この歌手のすばらしさを再認識させられることになったし、今後も聴く機会があればぜひ聴きたい歌手である。

 

 バンクルはウィーン国立歌劇場では2020/21シーズンは、2020年11月にセバスティアン=ヴァイグレ指揮で、お得意のヴァルトナー伯爵(アラベラ)を歌うことになっている。タイトルロールは安定感抜群のハンナ=エリーザベト=ミュラー、ズデンカにはカナダのソプラノで、2006年に夜の女王(魔笛)でウィーンデビューを果たした*6 ジェーン=アーチボルド、立体感のある声が持ち味のミヒャエル=フォーレのマンドリカで、いずれも注目の配役である。そしてフィアカーミリには、この役を大変得意としており、ウィーンのコロラトゥーラの顔となりつつあるダニエラ=ファリーが起用されている。*7

#今聴きたい歌手50選 第10回 ~エリン=モーリー~

 ようやくレポート地獄から抜けたかと思えば、9月初めにはテストを控えていて、その後は実習もあるため、夏休みとは何か考えさせられる今日この頃である。もっと自粛期間中に何かしておけばよかったのかもしれないが、そうもいっていられないので、今日のような数少ないフリーな日を専門書の読書に充てるなどしている。

 さて、長い間ご無沙汰してしまって申し訳ないところだが、今日も久しぶりに歌手の紹介をしていきたい。《ばらの騎士》関連の歌手をこれから紹介していきたいと思うが、その第1弾として、この歌手である。

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エリン=モーリー(ゾフィーばらの騎士)。ウィーン国立歌劇場(2015年4月)。*1

 エリン=モーリー(アメリカ)

 エリン=モーリーは、最近では最も私の理想に近いゾフィーのひとりである。滑らかで直線的な声。高音もしっかり出せる。中音域から高音域の充実感がとりわけ素晴らしく、線は細いけれど存在感のある歌唱を聴かせてくれる。私が初めて聴いたのはウィーン国立歌劇場のストリーミングでのゾフィーばらの騎士)であった。全体的に息の長い歌唱で、ブレスコントロールにも技術力を感じた。また、感情表現もなかなかよく、その線の細い声に含みを持たせることができるのも彼女の魅力だと感じた。

 モーリーはリリックなレパートリーを得意としている現代を代表するコロラトゥーラだと私は思う。メトロポリタン歌劇場で主に活躍しているほか、ウィーン国立歌劇場バイエルン国立歌劇場、パリ歌劇場など、世界のトップクラスと呼ばれるオペラ座で舞台に立ち、聴衆を魅了してきた。彼女のレパートリーには、上記のゾフィーだけではなく、ツェルビネッタ(ナクソス島のアリアドネ)やコンスタンツェ(後宮からの誘拐)、フィアカーミリ(アラベラ)、ルチア(ランメルモールのルチア)、ジルダ(リゴレット)、夜の女王(魔笛)などの何役も含まれている。また、若くして卓越した才能の持ち主であることから、パリ歌劇場でのゾフィーばらの騎士)やコンスタンツェ(後宮からの誘拐)、ウィーン国立歌劇場でのジルダ(リゴレット)、ゾフィーばらの騎士)、ツェルビネッタ(ナクソス島のアリアドネ)、バイエルン国立歌劇場でのフィアカーミリ(アラベラ)とジルダ(リゴレット)、メトロポリタン歌劇場でのオリンピアホフマン物語)などは、いずれも各歌劇場の最年少デビューとされている。*2

 

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エリン=モーリー(ツェルビネッタ、ナクソス島のアリアドネ)。ウィーン国立歌劇場(2017年11月)。*3

  私は幸いにも彼女のツェルビネッタ(ナクソス島のアリアドネ)をウィーン国立歌劇場のストリーミングで観ることができた。ゾフィーでもそうだったが、声に張りがあるものの滑らかさがあり、可塑性がある声だと私は感じた。その可塑性のある声がツェルビネッタの長大なアリアでは生かされていた。軽さもあり、羽毛が舞うような歌いまわしだが、特に高音の伸びやかな歌い方には中音域とは異なる独特さがあり、最高音に達すると解放感とともに線の細さを際立たせるような可変的な歌声に魅了された。同じようなレパートリーを持っているコロラトゥーラ・ソプラノでも、ヒーラ=ファヒマのような柔らかく丸みのある声でもありながら、同時にダニエラ=ファリーのようなビブラート少なめで少し硬質な声でもあるのは、このふたりにはない魅力だと思う。こういっておきながら私はいまだにファヒマのツェルビネッタを聴けてはいないのだが、ゾフィーばらの騎士)などを聴く限りはそのように感じられる。

 モーリーは2020/21シーズンはウィーン国立歌劇場にかなりの回数登場する。まずは2020年11月にシモーネ=ヤング指揮で、ブリテンの《夏の夜の夢》のタイターニア役を歌う。*4 この役はモーリーがウィーン国立歌劇場でのこのオペラの新演出初演(2019年10月)でも歌った役である。*5 そのすぐ後には、クリスティアンティーレマン指揮でお得意のツェルビネッタ(ナクソス島のアリアドネ)が続く。このときのアリアドネ役には、シュトラウス・プリマとして私が最も注目している歌手であるカミッラ=ニールンドが起用されている。モーリーは2020年11月の他、2021年3月にもド=ビリー指揮でツェルビネッタ役を歌うことになっている。*6

 そして何と言っても注目は2020年12月のフィリップ=ジョルダン指揮での《ばらの騎士》。ジョルダンベートーヴェン交響曲全集でも共演した気鋭のメゾソプラノ、ダニエラ=シンドラムのオクタヴィアン、しっとりとした深みのある声が持ち味のクラッシミラ=ストヤノヴァのマルシャリンに、最近新しいオックス像を作り上げてきているギュンター=グロイスベックのオックス、ウィーンで堅実な歌唱で定評を得ているシュメッケンベッヒャーのファニナルという配役で、この豪華な配役は非常に楽しみである。なお、イタリア人歌手役には昨年カヴァラドッシ(トスカ)で宮廷歌手の称号を授与されたピョートル=ベチャワが抜擢されている。*7

 

 それでは今日はこの辺で。

理想のマルシャリン~リーザ・デラ・カーザ

 新型コロナウイルス感染拡大が続いている。この調子では夏休みもあまり移動しないほうがいいのではないかと思えてくる。インフルエンザなどと異なり、夏でも感染拡大は続いており、ますます厄介である。私はレポートやテストに追われ…と思っていたら、対面でのテストは9月に延期になってしまった。この夏はバイトと課題で忙しいはずだが、そんな仕事の合間にデラ・カーザの歌うマルシャリン(ばらの騎士)やアラベラ、アリアドネナクソス島のアリアドネ)、マドレーヌ(カプリッチョ)などを聴いて心を安らげるのである。

 

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1972年、チューリッヒ歌劇場にて。デラ・カーザ(右から2番目、マルシャリン、ばらの騎士)のデビュー30周年のメモリアル公演。*1

 今日の話題はそんな魅惑のスイス人ソプラノ、リーザ・デラ・カーザ(1919‐2012)である。デラ・カーザは私の理想とするマルシャリン(ばらの騎士)であり、アラベラであり、マドレーヌ(カプリッチョ)であり…シュトラウス・プリマである。私は彼女ほどマルシャリンを体現しているソプラノを知らない。それはライニングとも別のマルシャリン像だと思うし、もちろんロットとも、シュヴァルツコップとも、現代最高のシュトラウス・プリマだと私が思うニールンドとも全く違うマルシャリンだと思う。また、他のシュトラウスのオペラのプリマ役にしても、他のドイツ系ソプラノとは断然異なるイメージを私は持っている。

 デラ・カーザには、輝かしい高音がある。よく白銀と喩えられる美声だが、その美声には決して押しつけがましいところがない。簡単に言ってしまえば、スピント系ソプラノで特にありがちな、耳がキンキンするような高音域ではなく、耳に心地よい、浸透力を伴ったにじみ出る感じのする高音である。このじわっと空間に広がっていくような高音域は弦楽器のレガートのようで、独特の気品を生み出すと私は考えている。決して線の太い声とは言えないが、それでも柔らかい輪郭を伴った、包み込むような温かさがある感じがする。線はそんなに太くないのにしっかりとした奥行きを持ち、空間的に響く。そこには品格と落ち着きが感じられる。

 デラ・カーザの声はひとたび聴いてしまえばだれが歌っているか分かってしまうほどの、個性のある美声である。清純さのある声で、ビブラートは少なめ。無駄なところが全くない、澄んだ水のような声である。中音域から高音域にかけては特に充実しており、瑞々しさを感じさせる。マルシャリンを聴いているとき、この瑞々しさによって、マルシャリンの設定上の年齢である30代前半もきちんとクリアしていると思う。多少ピッチは高めで、包み込むような柔らかさのあるデラ・カーザの声は、マルシャリンにぴったりなのである。

 デラ・カーザの低音域は多少喉の奥からになり、フラットになるところも多いが、これもまたマルシャリンの役作りには一役買っていると思う。それはマルシャリンの "Ein halb Mal lustig, en halb Mal traurig" という性格である。この多少フラットになりがちな低音は後者、マルシャリンの苦悩や葛藤を表すにはぴったりなのである。特に《ばらの騎士》第1幕のモノローグで、落ち着きのあるパッセージの中にフラットで不安定な低音が挟まると、マルシャリンの心の揺れを感じ取ることができる。

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リーザ・デラ・カーザ(リュシール、ダントンの死)。ウィーン国立歌劇場(1967年)。*2

 ここまでいろいろ書いたが、まとめると次のような感じになる。デラ・カーザの声は高音域を中心に、清楚で威圧感なく空間的に響く。この浸透力のある、落ち着いた美声とはマルシャリンの気品を表現するのにぴったりである。そして、彼女の声には瑞々しさがあり、若々しさもそれで表現することができる。マルシャリンの30代前半という年齢を表現するだけでなく、アラベラやマドレーヌ(カプリッチョ)でもこの若々しさは十二分に生かされる。そして多少フラットな低音域。これはマルシャリンの苦悩と葛藤を表現するのに適している。

 艶やかさと気品、落ち着き、わざとらしさや威圧感の全くない控えめな歌いまわし、そして芯のある知的さ。これこそ私の理想的なマルシャリンを作り出す要素といえる。例えばライニングのマルシャリンももちろん素晴らしく、そこにはいささか古風な趣がある。でも、デラ・カーザのマルシャリンには、ライニングに見られる落ち着きだけでなく、ライニングに比べてピッチが高いためか、若々しさがまだ残っている。そこに私は惹かれる。

 デラ・カーザのこういった特徴はやはり気品を必要とする役にはうってつけである。シュトラウスでいえばアラベラはもちろん最大の当たり役のひとつだし、マドレーヌ(カプリッチョ)の美しさは他の追随を許さない。アリアドネに見られる悲しみから喜びへの感情変化も、彼女の声にぴったりである。

 モーツァルトももちろん素晴らしい。例えばアルマヴィーヴァ伯爵夫人(フィガロの結婚)。これはマルシャリンやマドレーヌに通じる気品がある。ドンナ・エルヴィーラ(ドン・ジョヴァンニ)も素晴らしいし、パミーナ(魔笛)での若々しさも中音域から高音域の瑞々しさに裏打ちされた素晴らしいもの。

 そんな彼女の声の特長は、シュトラウスの《4つの最後の歌》として集約できる。私が大好きな音源で、気品と落ち着きをもって歌われるこの歌には惚れ惚れとする。これはぜひ聴いていただきたい音源である。

www.hmv.co.jp

 

  デラ・カーザ、ウィーン国立歌劇場アーカイブで調べると驚くべき回数、こうしたモーツァルトシュトラウスの役を歌っていることがわかる。アルマヴィーヴァ伯爵夫人(フィガロの結婚)は64回、ドンナ・エルヴィーラ(ドン・ジョヴァンニ)は30回、パミーナ(魔笛)は38回。シュトラウスで言えばアラベラを32回、アリアドネナクソス島のアリアドネ)を40回、マドレーヌ(カプリッチョ)を21回、マルシャリン(ばらの騎士)を43回歌っている。また、《ばらの騎士》ではマルシャリンの他にオクタヴィアンやゾフィーも歌っているし、クリソテミス(エレクトラ)のようなドラマティックな歌唱が求められる役も対応していることがわかる。この適応範囲の広さもまた魅力的である。*3

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リーザ・デラ・カーザ(左、パミーナ、魔笛)とヴァルター・ベリー(パパゲーノ)。1959年。*4

 

Die Zeit, die ist ein sonderbar' Ding

 

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アドリアンヌ=ピエチョンカ(マルシャリン)。ウィーン国立歌劇場での《ばらの騎士》(2019年3月、ウィーン国立歌劇場1000回目の公演)。*1

 最近、マルシャリン(ばらの騎士)への感情移入が激しい。10日ほど前、私は近くのカツ丼専門店で食事をした。この店には特盛(カツ2倍)などもあり、私もコロナ禍前まではときどき特盛を食べていた。でも、このコロナ禍で部活の練習もなくなり、今では絶対に特盛など食べられる気はしない。私も歳をとったのかななどと考えていたら、いつの間にかマルシャリンの時の観念が私の心を襲ってきて、マルシャリンの言葉通り、「突然時以外を考えられなくなる」という状態になった。

 今まで当たり前のように学校へ行き、授業を受け、泳ぎ、コンサートに行っていたのが、このコロナ禍ではすべてできなくなった。これを実感して、私は当たり前のように続いている日常がいかに貴重なものだったかを知ることになった。それと同時に、私の生き方にもマルシャリンの言葉が覆いかぶさることになる。

 カツ丼という些細なものから、正直ここまで考えさせられるとは思っていなかった。私はこれまでどのように暮らしてきたのだろう…。後から振り返ってみたときに、本当に後悔しない生き方ができているのだろうか…と考えると、首を縦に振る自信は勿論ない。大学に入って、勉強も、部活も、趣味も、そしてバイトも、本当に今まで中途半端な状態だと今更ながら感じる。こうして中途半端なまま時を過ごし、大学を離れ、将来もそのように過ごし、老後もむなしく迎えてしまうのではないのだろうか…。この何事に対しても半端な生活スタイルを継続し、寂しくひとりで死ぬのは正直怖い。最近はそんな恐怖の中に、ことあるごとに襲われている。

 自分の時間を大事にすること、それが私には意外とできていなかったのではないか…。確かに同世代の、例えば学科や部活の同期に比べれば、趣味はやや濃いのかもしれないが、こうしてTwitterなどで趣味を同じくする人びとと触れ合うと、いかに自分が中途半端なのかというのもたまに心の中に浮かんできて、いやいや所詮趣味に過ぎないし、ペースも個人個人で違うのだから…と打ち消している。また、部活の同期はもっと水泳に対して真摯に取り組んでいるし、学科の同期も勉強に対してもっと熱意がある人も多い。人と比べるのもどうなのかとは思うが、それでも自分はもっと密度の高い生活をすべきなのではないかと思わずにはいられない。

 私自身も勿論、時の流れにいる。時の流れに身をまかせ、だらだらと過ごすこともできる。それも楽しいのかもしれない。でも、このまま何も実りのない生活を続けることに対しては不安しかない。例えば、来年度の研究室配属や院試の勉強も、どうせならきちんと取り組み、大学に来た意味を見出したい。趣味も感覚だけで聴くのも楽しいけれど、せっかくならもっと深めたいと思って《ばらの騎士》のオンライン講義をご厚意から受け始めている。

 また、将来に対する不安も大きい。それは勿論、就職に関してもそうだし、本当に頭に思い描いているような未来を迎えられるか、アラベラの言うところのdie "Richtige" がどんな形であれ現れるのかどうか…などの不安もある。これまでに対する後悔もないわけではなく、部活ももう少し取り組めばタイムも伸びたのかもしれないとか、人間関係ももう少しうまくやれたかもしれないと思うことも(クラシック音楽関係も含め)あった。無駄な時間を過ごしたときもあったし、嫌なことを引きずって体調を崩した時期もあった。こういうことはこれから極力減らしていきたいところでもある。

 「自分の本当にやりたいこと」「今だからこそできること」は本当に大事にしたい。例えば昨年ウィーンに一念発起して行ったのは正解だと今はものすごく思う。後から振り返ってもこのウィーン遠征は後悔のない時間の過ごし方だと確信している。できる限り有意義に時間を使う、この当たり前のようなことをマルシャリンには教えてもらった気がする。これから予定を立てながら、例えば大学のうちに何ができるのか、あるいは大学を離れた後にどのような将来を送るのかなど考えながら、計画的に勉強も趣味もバイトも部活も、その他やりたいことも含め、やれるだけやって、充実した時間を過ごしていきたい。そして後から振り返ったときに後悔のないようにしたい。

 さまざまな機会につけてマルシャリンのモノローグを思い出すたびに、いろいろな不安がつきまとう。意図的に、例えば《ばらの騎士》を聴くときなどは別にそこまで深く考え込むことはない(すぐに第2幕で吹き飛ばされる)。でも、先日はバイト先でふとしたことから思い出してしまった。こういうときは本当に、マルシャリンの言うように時以外のことを考えられなくなる。

 今が楽しければいいという考え方ももちろんあるし、それを否定することはしないし、したくない。その人にとってはそれも正解なのだと思う。でも、私の場合はマルシャリンの言葉で、今後の生き方が明らかに変わる気がする。一度マルシャリンのようにじっくり時の流れを感じてみるのもいいのかもしれない。

 いまだに不安要素が大きな割合を占めている。あまり問題の解決にはなっていないかもしれない。でも、今後の生き方の大きな指針をマルシャリンにもらったと感じている。

 

 ただ、いちばんよく分かったのは、意外と自分は感傷的な人間のようだということである…。もちろん今も、《ばらの騎士》第1幕の幕切れ、ヴァイオリンのソロがボスコフスキーの音で響いている。

#今聴きたい歌手50選 第9回 ~オルガ=ベスメルトナ~

 この夏の計画を立てている。この夏は勉強を頑張ることにした。勉強といってもオペラの勉強ではなく、大学の専攻科目の勉強である。今のところ、生態学、植物生理学、進化遺伝学といった方面に興味があり、そちらの方面に進んでいきたいなと思っている。この夏にできる限り知識を吸収して、研究室配属や大学院入試に向けて、その足掛かりを整えておきたいところである。

 もちろんせっかく伸ばしたドイツ語や音楽に関する知識は維持していかないといけない。専攻科目をメインにしつつ、これらも計画的に組み込む必要がある。来年の夏、大学院入試の後にウィーンに飛んで、ジョルダンを聴くことを画策しているのだが、お金もまだまだ足りない。今のうちに精一杯稼いでおかなくてはならないので、当然バイトもかなり力を入れる。この夏はかなり忙しくなりそうだが、その合間にコンサートに行って気分転換をしつつ、できるだけ高いパフォーマンスを発揮できるように、計画はぜひ大事にしていきたい。

 

 さて、そんな中でも最近の歌手の紹介を続けていきたい。今日は私の大好きなスピント・ソプラノを紹介したいと思う。最近いちばん推している歌手のひとりである。

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オルガ=ベスメルトナ(ウィーン国立歌劇場150周年記念コンサートマチネ)。2019年5月。*1

 オルガ=ベスメルトナ(1983-、ウクライナ

 2011年のウィーン国立歌劇場のNeue Stimmenに登場し、2012年からウィーン国立歌劇場のアンサンブルメンバーとして、ウィーン国立歌劇場で活躍するようになったソプラノ。*2 リリックな役からスピント系の役まで幅広く歌える。彼女がウィーン国立歌劇場でとりわけ成功した役が2012年のアルマヴィーヴァ伯爵夫人(フィガロの結婚)であり、以降20回ウィーンでこの役を歌うまでになった。他にも2013年から2017年まで歌ったパミーナ(魔笛)や2015年から2018年にかけて歌ったドンナ・エルヴィーラ(ドン・ジョヴァンニ)、2017年と2018年に歌ったタチアーナ(エフゲニー・オネーギン)などの当たり役がある。2014年にはルサルカ、2016年にはリュー(トゥーランドット)、2017年にはデスデモーナ(オテロ)、2019年にはミミ(ボエーム)がレパートリーに加わった。年を経るごとにレパートリーを拡大し続けている、気鋭のソプラノである。*3

 私が初めて彼女の歌声を聴いたのは2018年10月の《エフゲニー・オネーギン》で、その落ち着きと気品のある声にまず惹かれた。タチアーナは第2幕までと第3幕ではその表現を変える必要がある難役だと私は思うのだが、彼女は第1幕の手紙の場に見られるような夢見がちな心を弾ませる少女のような表現と、第3幕で見られるような夫人となって落ち着きと気品を持った表現の対比がとりわけ魅力的だった。このタチアーナで彼女を知ったし、この作品を知ることができた。それ以降、できる限り彼女の歌声を聴きたいと思うようになった。

 このコロナ禍でのウィーン国立歌劇場のストリーミングでも、ベスメルトナは何度も登場した。2017年の《魔笛》でのパミーナの歌唱もなかなか素晴らしかったし、2019年の《ダントンの死》でのリュシールも本当に素晴らしかった。前者ではタチアーナ(エフゲニー・オネーギン)でいうところの第2幕までの少女のような表現が、後者では若くも気品のある美しさを備えた歌唱が本当に魅力的だった。

 しかし、ベスメルトナの魅力はアルマヴィーヴァ伯爵夫人(フィガロの結婚)を抜きには語れるものではない。彼女のアルマヴィーヴァ伯爵夫人は、持ち前の奥行きのあるふくよかな声と奥ゆかしさのある気品に満ちている。第3幕の "Dove sono" は私のいちばん好きなモーツァルトのアリアのひとつだが、芯のあるけれど丸みを帯びている彼女の声には、情感あふれるものがある。中でも絞り出すような線の細い高音や奥からの発生が特徴的なピアノが、その感情表現には一役買っている。全体としてはクリアで澄んだ美声だが、程よくビブラートを使い、それに包むように芯のある安定感のある歌唱をするので、フォルテでもとても柔らかく聞こえ、そこには上品さを存分に感じられるのである。

 ベスメルトナはアルマヴィーヴァ伯爵夫人でウィーン国立歌劇場で主役級を歌うようになり、評価されるようになった。彼女はこの役に自信を持っているのか、 "Dove sono" を歌う機会が多く、ウィーン国立歌劇場150周年記念のコンサートマチネでもガラコンサートでもこのアリアを披露している。*4 また、先日はウィーン国立歌劇場のストリーミング「若手歌手のガラコンサート」でもこのアリアと《フィガロの結婚》第2幕のアンサンブルフィナーレを歌い、その安定感のある伯爵夫人を聴かせてくれた。*5

 彼女が伯爵夫人を歌っている動画があるので、是非紹介したいと思う。まずは彼女の2011年のNeue Stimmenでの歌唱を。

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 そして、2014年のウィーン国立歌劇場での公演はこちら。

youtu.be

 

 今後が非常に期待できるソプラノなので、これからもその活躍を見守っていきたいと思う。そして近いうちに絶対に生で聴いておきたいソプラノ、できれば彼女のアルマヴィーヴァ伯爵夫人をウィーン国立歌劇場で聴いてみたい。

 

 それでは長くなってしまったのでこの辺で。